命を数字として扱うことについて

先日、ネットの掲示板を見ていて、命を数字としてしかみない医療行政に苦言を呈する発言を見かけた。
具体的に病院などで不愉快な経験をしての発言なのかもしれないが、私はやはり行政は命を数字として扱うべきだと思うのである。


もちろん私にとって命は数字ではない。
私は喜びも悲しみもある彼らの人生を知っており、その夢を知り、その努力を知っている。
彼らが抱える仕事や子供について知っており、仲間や家族にとって彼が代えがたい大事な存在であることも知っている。
だから彼らの命は重い。
とても重い。


それに比べて、会ったことも見たこともない連中の命なんてあって無きがごとしだ。
連中の命なんぞ羽毛より軽い。


私にとって命はただの数字ではない。
仲間や知人の命は大事であり、知らない他人の命はそれに比べればどうでもいい。
命には大小関係がある。


ここまで極端でなくても、自分の家族や恋人、友人、思い入れのある人間の命のほうが見ず知らずの他人より大事なのは一般的な話であるだろう。


命を数字としてみないということは、つまり命の価値に優先順位をつけるということである。


だが行政はそれでは困るのである。
彼らには、全ての人に人生があり、夢があるかもしれず、守るべきものがあるかもしれないことを承知しておいてもらわないといけない。
彼らは全ての人生に等しく価値があることを知るがゆえに、全ての命を平等に扱う者でなくてはいけない。
それは、つまり命を数字として扱うということである。


命に全て同じ価値があるならば、10個と9個の命のどちらかを選ばないといけないときに、行政は10個の命を選択しないといけない。
もし9個の中に自分の家族や恋人がいたならば、その人にとって「より重い」のは9個の命の方だ。
だか行政はそんな理由で救われる人と救われない人を分けてはいけない。
命を数字として扱うということは、エコヒイキや不公正をなくすということでもある。


そしてより多くの数字を確保するためには、助かる見込みのない命を捨てて助かる命を助け、
サラリーマンを助ける前に、医者やライフラインを守る役人を先に助ける。
そういう事態も起きうる。
それにより結果的には、より多くの数字が残ることができるからだ。


命の価値に優先順位をつけないがゆえに、救われるべき命に優先順位をつけるのである。


それでは私たちは救われない人々のことは忘れるべきなのだろうか?
彼らの命をあきらめるべきなのだろうか?


そんなことはない。
今回の話は行政には行政の役割があり、私たちには私たちの役割があるという話である。


ある文学者はこう言った。
100匹の羊の群れがいて、そのうちの1匹がはぐれたとき
政治の仕事は99匹の群れを守ることであり、はぐれた1匹のことを気にすることでない。
はぐれた1匹を追いかけるのは文学者の仕事である、と。


今回の話もそれと同じである。
行政がより多くの数字を救うのが仕事ならば、私たちが小さな数字とみなされた命たちを追いかければいいのである。


もし行政までも私たちと一緒になって1匹の羊を追い始めたら、残り99匹の羊まではぐれてしまう。


私の仲間はお世辞にも一般的に高い優先順位をもらえる命たちではない。
むしろ優先的に死すべき連中だ。
だからこそ私は、準備を怠らないようにしている。
そして行政が公平であることを信頼すればこそ、私は心置きなく「不公平」に救いたい命だけへ集中することができるのである。