世界を正しく認識したい。
それが私の願望である。


間違った認識は間違った行動を生む。
間違った認識は自分の人生を暗くする。
間違った認識は他人を不幸にし、世界を住みにくい場所にする。
悲劇や惨事は悪意からではなく、善意の人間の間違った認識から生まれることが多い。
これらの理由をふまえれば、より良い世界を望み、より充実した人生を望む者にとって、
世界を正しく認識することが必要不可欠であることは自明であろう。


そして何よりも世界を正しく認識していない人間の迷妄は見苦しく、無様である。
「アポロは月に行っていない」
「スピリチュアル」
「水にアリガトウ」
「経済政策の目的の1つは国際競争力を高めることである」
「進化論は科学ではなく、空想だ」
妄想の世界で生きるのは楽かもしれないが、見ている方はうんざりさせられる。
彼らの失敗は無知であることだ。そして無知であることを反省しないことだ。
二千五百年前から言われているギリシャ人のアドバイスをいまだに守れないでいる。


もちろん誰一人として完全に迷妄から自由になれはしない。
何故なら間違わない人間なんてものは存在しないのだから。
それに時代の限界もある。それは知識の限界でもある。
現代において相対論を知らない人間は宇宙を正しく認識できない者だが、
それを理由にニュートンガリレオを無知と嘲笑う者はいない。
世界を正しく認識したいと願う私であるが、死ぬまで私は迷妄をひきずってしまうであろう。


それでも私は可能な限り世界を正しく認識していたい。
そのためには学び続けるしかない。


しかし残念なことに私はバカ者である。
これは卑下ではなく事実だ。そして私は自分のバカを恥ずかしいとは思わないが、残念だとは思っている。
バカに生まれたのは私の責任ではないから後ろめたいことはない。だがバカであることは不便だから残念なのだ。
私は記憶力が低い。いまだに20年以上暮らしてきた地元で迷子になり、兄弟の顔や名前をたびたび忘れ、
獲得した知識をドブに捨てている。
私には昨日でさえ遠すぎる。
それが私の「バカ」である。


だから私は記録を残す。
学んだことをドブに捨てる前に筆を走らせる。
そして私は後日、それを読み返し、過去の自分に学ぶのだ。


そこで私はブログをメモを残し、整理し、管理するのに利用することにした。
つまり、ここは私のための場所である。
これは私が世界を正しく認識するための道具である。
(ただし自分の書いた物を公表するからには、最低限の責任が伴うことも承知している。)