はじめに

私は面白い本を見つけると他人に読ませたくなる人間である。
無理矢理人に押しつけて、時には目の前で強制的に読んでもらい、その作品の存在を知って欲しいと思う押し付けがましい奴である。


もっともそんな強引なマネは知人だからできることで、ネットでの面識もない人に対してそんなマネはできない。
できることは、こういう場でそれらの本を紹介することだけである。


私がするのは「書評」ではなく、「紹介」である。
本のあらすじをつらつらと説明して、最期に「著者の意見に同意する」とか「今後の動向が注目される」とお追従を付け足すだけの代物だ。
つまり書評のプロでもある山形浩生氏が批判するような「ダメな書評」の見本のようなことをしているのである。


しかしそんな紹介でも時間がかかる。一冊、一冊の本の内容を要約して紹介していては時間がいくらあっても足りはしない。
旧玄文講では平均一冊1時間半もかけて書いていた。
だからできることなら知人にしているのと同じように本を渡して「読め」とやりたいところである。


だが人にはそれぞれ趣味がある。
相手が知人ならば、その趣味を察して推薦する本を選べる。


この人は三国志好きだから酒見賢一陳舜臣宮崎市定の歴史書に、マンガならキングダムを勧めよう。
この人は西洋史が好きで、経済にも詳しいからブローデルの歴史書、「銃・病原菌・鉄」それに竹森氏の「世界経済の謎」も楽しく読んでくれるだろう。
この人は黒いから「カイジ」、根本敬、村崎百朗、花輪和一、冥土出版の本を読ませよう。
そういう予測ができる。


しかし見知らぬ相手にそれはできない。好き嫌いは人それぞれだ。
だからこそ本の内容を紹介して初めて「どうぞあなたの趣味にあいましたら、お読み下さい」と言えるのである。


(余談)
ところで時おり自分の好きな本(本に限らずマンガやアニメ、ドラマ、映画)を理解しない人間に対して「感性がない」とか「知性に欠ける」と怒りだす人がいるが、そんな人を見ると「どうしてあんなに自分の感性に自信が持てるのだろうか?」と疑問に思える。


自分の好きなものを相手が好きになるとは限らない。
たとえば私はW村上どちらの作品も好きになれないし、司馬遼太郎作品も苦手だ。
それらが良作であることは確かだが、良作であれば誰もが評価するわけではない。
また世間的な評価でも客観的な自己評価でも駄作ではあるはずなのだが何故か自分は好きだという本もある。


本の趣味や読書量を基準に人の善し悪しを決める人を見ると、私は福田恆存氏の「知識はスタイルを持たない人間の精神を傷つける」という言葉を思い出し、押し付けがましい読書家にその実例を見出す。(余談おしまい)



でも、めんどくさくなった。
面白いと思う本がたまりすぎて、それらを紹介できていないことがストレスにさえなりつつある。


だから、ここに私はろくに本の紹介もせずに、ひたすら私が面白いと思った本を押しつける場を作ることにした。
仮に貴方がここに紹介された本を大枚をはたいて買い、期待をもって読んで、ガッカリしても責任は取れない。
アフィリエイトもしないので、金銭的な義務を負うつもりもない。
それでも私は無責任にもこう言うのだ。


「さぁ、今すぐこれを読め!」と。