米原万理「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」☆☆

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

子供時代の思い出は、何もかもが懐かしい。


特にその時期を共有した子供時代の友人たちとの日々は、二度と手に入らない大事な時間だ。
彼らは無二の親友で、いつでも会える自分の生活の一部のような存在で、何でも話せる相手であった。


それにも関わらず、成長して大人になり、環境が変わり、日常生活に追われる中で、いつの間にか彼らとの関係は疎遠になり、彼らのことはただの遠い記憶の一部になっていく。


そういうものだ。
子供の頃から大人になるまで友人関係を継続できるのは珍しいことだ。


それでも、ささいな会話。互いに交わした約束。一緒に遊んだ場所の記憶、
それらの一つ一つが今の自分を形作っている。


この本はそんな子供の時間を共有した少女たちが、歴史に翻弄され、消息をたち、長い時を経て再会するまでを書いた話である。


著者の米原万理さんは10歳のとき、日本共産党から派遣された父親に連れられてチェコスロバキアプラハにあるソビエト学校に入学した。


その学校には当時、ソ連と国交のあった世界中の国から多くの子供たちが集まっていた。
彼女はその学校で3人の女の子、


ギリシャ人のリッツァ、

ルーマニア人のアーニャ、

ユーゴスラビア人のヤスミンカと仲良くなった。


米原さんは父親の仕事が終わるまでの5年間をプラハで過ごした後、その友人たちと別れることになる。


そして、その後の彼女たちの関係は ほぼ30年間、空白に近い状態になる。
それは日々の暮らしが忙しかったせいもあるのだが、彼女たちの場合は国際状況の変化も反映されていた。


理想主義者というのは決して団結しない人間たちである。
当時ソビエトと中国は関係が悪化しており、ソビエトは中国寄りだった日本共産党とも仲が悪くなった。
そして子供たちは資本主義国家である日本の人間との交流は良くない事として親や教師からけん制されていた。そのため手紙のやり取りさえ自由にはならなかった。


更にはチェコスロバキアにおいてプラハの春という「人間の顔を持つ社会主義」を目指した改革運動が起こり、ソビエトはそれを弾圧し、プラハソビエト学校は閉鎖され、生徒たちはバラバラになった。


プラハの春の弾圧、ギリシャでの軍政から民政への移行、ルーマニアでの独裁者チャウシェスクの処刑、ユーゴスラビアにおける互いが互いを殺しあう悲惨な民族浄化の嵐。
東欧が激震するたびに米原さんは彼女たちの安否を気づかい、ソ連崩壊によってようやく彼女たちと連絡を取れるようになるのである。


この本は3人の友人についての3つの話からなり、各話において前半で少女時代の思い出が語られ、後半でソ連崩壊後、米原さんが彼女たちの消息をたどる話につながる。


ここでは、その3つの話の前半部分だけを紹介したいと思う。


(1)リッツァの夢見た青空

リッツァはまだ見ぬ祖国のギリシャの空のことを

「それは抜けるように青いのよ」

と誇らしげに語る女の子であった。

リッツァとその家族は軍事政権下のギリシャからの亡命者一家だった。
彼らは戻ることのできない祖国とその青い空をこよなく愛し、故郷に帰れる時を心待ちにしていた。
リッツァの母親は美しく、兄は鼻持ちならないが女子にとても人気があるスポーツマンで、父親は美男ではないが誠実で真面目な好人物であった。


そしてリッツァは勉強がからきしダメな子供だった。彼女はある日、女性数学教師から


「体重2キロのニワトリは片足で立つと何キロになりますか?」


と訪ねられて、堂々と「1キロ」と答えた。
数学教師は呆れながら彼女に片足立ちをさせて自分の体重がそれにより変化しないことを納得させた後、


「リッツァ、同じように片足で立ったというのに、なぜニワトリは体重が半分になってしまうのに、あなたの体重は変わらないの」


と問いただした。
すると、リッツァは目に涙を浮かべて、すすり泣きながら抗議した。

「私は人間ですよ。トリなんかと同じに扱わないで!!」

数学教師はリッツァに対して「あなたは本当に、ピタゴラスユークリッド先生を生んだギリシャ民族の末裔なの!?」と何度も嘆くのであった。


しかしリッツァはそんな嫌味に対して


先生方は頭が硬いから、ギリシャっていうと、古代ギリシャ止まりなのよ。
でも、あたしは、メリナ・メルクーリやカザンキスの同胞だと思っているから、ピタゴラスアルキメデスも糞喰らえってなもんだわ、ハハハ」


としか思っていなかった。


映画俳優を同胞と呼ぶ彼女は映画通であり、また年上の兄から仕入れた恋愛とセックスの話で思春期の女の子たちを夢中にさせるマセた子であり、スポーツ万能でもあり、心根の明るい快活な少女でもあった。
そんな彼女のことを他の生徒も好ましく思っていたのか、毎年落第しそうになるたびに彼女はクラスメートの支えを受けて進級していた。


だがリッツァはただ明るいだけの少女ではなかった。
米原さんは、あることをきっかけにリッツァのことを尊敬するようになる。
それは学校で行われた「レーニンの足跡をたどって」という映画の上映会での出来事だった。
その映画ではレーニンが過ごした各地の住居跡、小都市シムビルスク、カザン市、シベリアの流刑地、亡命先のスイスやチェコのマンションが次々と映し出され、ナレーションは偉大な指導者の革命にささげた情熱について歌い上げていた。
米原さんがそのことに子供らしい素直さで感動していたとき、リッツァは言ったのだった。


「マリ、レーニンって、すいぶんいい暮らしをしていたのね」


そこで米原さん始めて、映画で紹介されていたレーニンの部屋が高価な家具であふれていたことに気がついた。
実際レーニンは自分で自分の生活を支えた労働経験のない、小作料を当てにして生活していた地主であった。
10歳で、しかも何の予備知識もなくそのことを見抜いた少女の「シビアなリアリズム」に米原さんは敬意を抱いた。


米原さんがプラハを離れてからも、しばらくの間はリッツァと手紙のやり取りがあった。
その中でもリッツァは


「パパは、あたしに医者になれ、医者になれって毎日うるさいけど、まっぴらだわ。
医者なんて、一生勉強じゃない。これほどあたしに不向きな職業はないとは思わない?
ああ、ゾーとする。絶対に医者になんかなるもんですか!
あたしは映画女優になって食ってくつもりだから。
贅沢して、いい男と片っ端から寝てやるつもり。


未来の女優より」

という相変わらずの能天気さを発揮していたのであった。


やがてプラハの春が起き、ソビエト学校が閉鎖され、手紙も電話も通じなくなり、リッツァとは音信不通となった。

ただ米原さんのもとには風の噂で、リッツァがチェコスロバキアの最高峰の大学の医学部に入ったという話が伝わってきた。


あの勉強嫌いなリッツァがエリート大学の医学部に?
「絶対に医者になんかなるもんですか!」と言っていた彼女が?
米原さんはリッツァの父親がコネを使ってリッツァを大学に入れたのではないかと疑念を抱いた。
また、あのリッツァがきちんと医学部を卒業できるのかが心配だった。


その後ギリシャは民政へと移行し、ギリシャの青い空を愛していたあの家族は皆祖国へと帰ったに違いないと米原さんは思うようになっていた。


それからしばらくしてソ連が崩壊すると、米原さんはプラハへと向かった。


女優を目指していた少女、リッツァと会うために。