貨幣その4「その因果」(旧玄文講再録)

under52006-11-01

どうやら市場における貨幣の影響について二つの異なる意見が存在するようである。


それはケイジアンとマネタリストである。
前者は政府や中央銀行は金融政策を通して市場に介入するべきだと考え、
後者は金融政策は景気回復の足を引っ張るだけであり、政府や中央銀行は市場に介入すべきではないと考える。


これは大きな政府か小さな政府か、規制をすすめるか緩和するか、といったよくある議論の経済版である。
乱暴にまとめると、この意見の対立は市場における政府や中央銀行の役割を評価するかしないかという問題になる。


議論は同じ土俵の上に立たないと成立しない。
どの学派も共通で認めていることはある。議論はその解釈をめぐって行われているようなのだ。
だからまずは、その皆が認めていることについてから話したいと思う。


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貨幣数量方程式


市場で貨幣がどのように動いているかを表現する式がある。それはとてもシンプルなものだ。


(流通している貨幣の量、マネーサプライ M)×(貨幣の流通速度 V)
 = (価格 P)×(取引の回数 T)


全てはたったこれだけのことなのである。
この恒等式を貨幣数量式と呼ぶ。


まずはこの恒等式の意味を説明する。
この式の右辺「PT」は「どれだけの取引が行われた」を意味する。単位はP [円]、T [回/一定期間]である。


例えば100万円の車が10台売れれば、価格 P = 100万[円]、取引回数 T = 10[回/一定期間]、取引の総数 = 1000万[円/一定期間]である。


しかし実際には現実の世界における取引回数を調べるのは困難である。誰が何を何回買ったかなんて調べていられない。そして観測できない数値についての数式なんて何の意味もない。「取引総額」なんて誰にも分からないのだ。


だが「取引総額」は「生産総額」にほぼ比例するはずである。なぜなら取り引きされる物は全て生産されたものであり、取引が成立したということは生産額が上がることを意味するのだから。
そして「生産総額」は次の式で表わすことができる。


(生産総額) = (物価 P)×(生産量 Y)


生産量「Y」の単位は[円/一定期間]であり、ここでの物価「P」は単なる現在の物の価格ではなく、インフレ率も考慮したGDPデフレーターのことである。これは比例係数となり単位はない。
つまり生産量とは実質GDPのことであり、生産総額とは名目GDPのことである。そしてこれらは毎年政府により統計が発表されている観測可能な量である。


実質GDP (Y) = 名目GDP (PY) / 物価 (P)
GDPデフレーター(物価) = 今年の物価 / 基準年の物価 = 名目GDP / 実質GDP


以上より貨幣数量式の右辺は次の式で置き換えられる。


(右辺) = (物価 P)×(実質GDP Y) = 名目GDP


今後はこちらのタイプの貨幣数量式を用いることにする。


この式の左辺「MV」は「私たちの間でどれだけのお金が出回っているか」という支払いに用いられた貨幣の量を意味する。単位はM [円]、V [回/一定期間]である。


マネーサプライ「M」は以前に説明したように中央銀行や政府が発行する紙幣や通貨により供給される。
そしてこの量の調整をすることが金融政策であり、その是非が先ほど問題になっていたわけである。


流通速度「V」とは一定期間に同一の貨幣が何回所有者を変えたかを意味する。


こんな話がある。
かの有名お笑い芸人、明石屋さんま氏の体験談だ。さんま氏は、ある日、喫茶店で支払いをしようとして千円札を取り出したところ、その千円札には「さんまさんに届きますように」と書かれてあったそうだ。
さんま氏はそれを非常に喜び、周囲の人々に「どやっ!」とその千円札見せびらかして大いに自慢したそうである。


これはお金はめぐるということを如実(にょじつ)に表わすエピソードである。
この話において1枚の千円札はファンからさんま氏へと2回所有者を変えて、市場においては千円×2=2千円分の支払いに使われたのである。


もしこの世に出回っているお金の量が同じでも、この速度が大きければ経済はうるおう。
世界にお金が100万円しか存在せず、それが一年間に1回しか所有者を変えないのならば100万円は100万円でしかない。
それが年に10回所有者を変えれば、100万円はその世界で1000万円分の働きをしたことになり、生産性も前者より10倍大きくなる。


この流通速度の解釈、それが変化するのか、それとも一定なのかも議論がわかれるところである。


さて、ここまではケイジアンもマネタリスト共通して認めるところである。
ではこの両者はどこで意見が分かれるのであろうか。
どうやらそれは「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか?」という問題の解釈についてだそうだ。明日はそれについて考えてみる。


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古典的二分法(長期的因果と短期的因果)


ここで最後に簡単に結論だけを書いておいてしまおう。
その方がこれからの話で何に注目すればいいのか分かりやすくなる。


まず恒等式はそれだけで物事の因果関係を教えてはくれない。
どの変数をいかように制限するかで、その解釈が変わってくる。


たとえば中央銀行によってマネーサプライが調整され、その量が変化したとしよう。
その影響はどのように表われるだろうか。


PY = MV


ここでMが大きくなれば、両辺が等しいままであるためには「物価 Pが上昇する」か「生産量 Yが増加する」か「流通速度 Vが低下する」の3つの可能性が挙げられる。
Mが小さくなればその逆が起きる。


そこでマネタリストは流通速度が一定であると考える。
もし流通速度が一定であるとしたら、変化するのは物価と生産量だけだ。


そして彼らは、短期的には生産量が変化するが、長期的には生産量は元に戻り物価だけが変化すると言う。
つまり短期的には私たちの実生活に影響があるが、最終的には何もなかったのと同じことになる。給料が上がれば、物価も上がり、私たちの購買力は何も変わらず、生活も何一つ変わらない。


長期的にみればマネーサプライは実質変数に何の影響も与えない。これを名目変数と実質変数の区別という意味で「古典派の二分法」と呼ばれる。そして実質変数と貨幣が無関係であることを「貨幣の中立性」と言う。


そして更にマネタリストは全ての調整は市場が行ってくれるから、政府は金融政策なんて余計なことをしなくていいと主張する。
介入は市場を混乱させるだけで、余計なお世話だというわけだ。


一方、ケイジアンも短期的には生産量が変化し、長期的には生産量は元に戻り物価だけが変化するということを認めている。
ただしその調整はマネタリストが言うほど順調にいかないと考えている。いつまでたっても元の状態に戻らず悪影響が消えないことがある。だから政府は金融政策をして強制的に調整しないとどうにもならないと主張するのだ。


さて、現実にはどの現象が起こっているのだろうか?
どうやら流通速度は一定ではなく、長期的にも生産量への影響が残り続け政府の介入が必要とされている。
マネタリストの主張は現実と一致していないところがある。今のところ優勢なのはケイジアンのようである。


以上ではケイジアン学派もマネタリスト共通して認めている貨幣数量式「PY=MV」について考えてみたが、
この両者はどこで意見が分かれるのであろうか。
どうやらそれは「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか?」という問題の解釈についてのようだ。今日はそれについて考えてみる。


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貨幣需要関数(ケイジアン学派)


「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか」だって?
そんなの、答えは簡単だ。
「いくらでも」だ。お金はあればあるほどいいに決まっている。


では質問の仕方を変えてみよう。
「年20%の利子がつく債券」と「インフレで実質的な価値が下がり続ける貨幣」とではどちらが欲しいだろうか?
これも答えは簡単。前者、前者、圧倒的に前者がいいに決まっている。


ならば何故、私たちは利子もつかない貨幣なんかを持っているのだろうか。
いますぐ所有する全ての貨幣を利子のつく債券に変えてしまえばいいのである。
リスクが恐い?日本やアメリカの国債ならば元金は保証される。為替リスクを考えても、大儲けはできないが損はしない。ただ価値が目減りするばかりの貨幣よりははるかにマシだ。


でも私たちはそんなことはしない。それは何故か。
ここで貨幣の役割の1つである「交換手段」に注目してみよう。


私たちが買い物をするとき、支払いに国債や外国の通貨を渡しても受け取ってもらえない。
いくら利子がつくからといって全財産を債券にしてしまうと、水も電気も食料も何も買えなくなる。私たちはまるでミダス王のように全てを黄金に変えて餓え死にの危険にさらされてしまうのである。
だから利子を失ってでも交換手段としての貨幣を私たちは所有しなくてはいけない。


だから貨幣は必要最低限だけ所有するのが一番であり、それを決める式が貨幣需要関数である。
では私たちはどの程度、貨幣を欲っしているのだろうか。


まずは取引の額や量が増えれば増えるほど、貨幣は多く持っておきたくなる。そして貨幣の需要が増える。
前に書いたように「取引の量」は「生産量」に比例する。
つまり貨幣の需要は実質国内総生産「Y」に比例して増加する。


一方で債券の利子率や貨幣のインフレ率が上がったとしよう。そうすると私たちはやはり貨幣を多く持っているのがもったいないと思うようになるだろう。
そして私たちはなるべく貨幣を債券にまわすように努力するに違いない。
実質収益をあげる債権の実質利子率とインフレ率の和を名目利子率と呼び、貨幣を持っていると名目利子率の分だけ損をすることになる。
よって貨幣の需要は名目利子率「i」に比例して減少する。


最終的には供給された以上の貨幣は需要されない。つまり需要量は供給量と等価になる。マネーサプライが貨幣の供給量なのだが、これは名目変数なので物価で割った実質変数にしてやる。つまり現実の購買力を表わす実質貨幣量「M/P」が貨幣の供給量を意味する。よって次の式が成立する。


M/P = L(Y,i) 


右辺の「L」はYとiを変数とする需要関数である。(「関数」というのはカッコの中の変数に依存していて、それらにより物事がどのような因果関係で変化するかを表現している。)


ここで貨幣需要が名目利子率に依存するという点がケイジアンの要点である。
そして金融政策は次のようにして行われる。
図を見ていただきたい。(図が小さ過ぎて見えないので、来週末までに改善いたします)
オレンジの線はマネーサプライ。マネーサプライは中央銀行が恣意的に決める量であり、利子率に依存しないので垂直に立っている。
青い線は需要関数。利子率に比例して減少するので右肩下がりのグラフになっている。


ここでマネーサプライを増やしたとする。(オレンジの線の移動)
これは上式の左辺を増やしたことになり、右辺であるLも増加する。(青い線上の赤丸の移動)
Lが増加すると利子率は減少する。(縦軸の数値の変化)


こうして貨幣の供給量を増やせば名目利子率が減り、私たちはお金を借りやすくなり、投資などにお金が使えるようになり、生産量や需要が増えるというわけである。


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ケイジアンへの批判


ケイジアン学派が批判されるのは大まかには2つの理由がある。
1つは彼らの使う需要関数への批判。もう1つは彼らの提唱する金融政策への批判である。
この2つの批判に共通していることは「貨幣需要が利子率に依存する」ことへの批判である。


さて、ここで貨幣の定義を思い出していただきたい。


C  = 現金


M1 = 現金 + 銀行預金


貨幣とは「交換手段」「貯蔵」「尺度」の定義を満たすもののことを指し、必ずしも私たちの使っているお札やコインに限定する必要はない。
たとえば銀行の普通預金も貨幣の定義を全て満たす。水道代、電気代、大口の商取り引きにおいて私たちは自分の銀行口座から相手の口座へとお金を送る。
そこで動いているのは機械の中のデータと印字された数字だけであり、現金は存在しなくともよい。それなのに0と1の群れとインクが交換手段としての役目を果たしているのだ。


なにせ現金と銀行預金の比は1:4くらいあるのである。もしこの4を全て現金にしようとしたら全ての銀行は破綻することだろう。だって全員に支払うだけの現金なんて存在しないのだから。
この貨幣は私たちが銀行を信用することで成立している。
私たちは、銀行が現金を要求された時にいつでもインクの数字を札束と交換してくれることを信じている。そして全員が一度に現金を要求することなんてないだろうから、1:4の不均衡も許せるのである。
この世には存在しないお金、私たちのイメージの中にだけ存在するお金、「クレジット(信用)」という名の貨幣があるのだ。
私たちはこれを「預金創造」だとか「信用創造」と呼ぶ。


閑話休題
つまり銀行預金だって立派に貨幣としての役割を果たしており、しかもこの貨幣には利子がつく。
それなら「初めと話が違うではないか」ということになる。私たちが貨幣を持たないのは利子がつかないからだ。
もし債券と銀行預金の名目利子率が大して違わないのならば、需要関数が名目利子率に依存するかどうかが疑わしくなる。


これが理由の1つ目。需要関数への懐疑である。


そして理由の2つ目は金融政策における中央銀行の役割への懐疑である。
先ほど書いたように中央銀行は名目利子率をコントロールする。名目利子率は実質利子率とインフレ率の和である。


私たちが本当に嬉しいのは実質利子率の変化である。実質金利が減ればお金を借りやすくなり、事業も拡大できる。しかし名目利子率の変化分とインフレ率の変化分が同じならば実質利子率はまるで変化しない。ぜんぜん嬉しくない。
それなら中央銀行がいくら頑張って名目利子率をコントロールしたって無意味だということになる。


更には実質利子率が増えても投資が増えないという現象も観測されており、名目、実質に関わらず利子率の変化は景気にほとんど影響しないのではないかとも考えられている。


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貨幣需要関数(マネタリスト


それではマネタリスト貨幣需要関数をどうみなしているのだろうか。
再び図を見ていただくと、マネタリスト貨幣需要関数は利子率に依存せず垂直に立っている。
この場合、貨幣需要関数「L」は生産量に比例するだけである。


貨幣需要関数 L) = (比例定数 k) ×(生産量 Y)


一方で
貨幣需要関数 L) = (マネーサプライ M)/(物価 P)
という需要と供給の等価式は前と同じように成立している。


よってkY=M/Pという式ができる。ここで貨幣数量方程式PY=MVを思い出すと


(比例定数 k) = 1/(貨幣流通速度 V)


となる。左辺が定数なので、右辺の貨幣流通速度も定数となる。つまり貨幣流通速度は一定であるみなすのだ。この仮定を「貨幣数量説」と呼ぶ。


マネタリストは金融政策を好まない。複雑なマネーサプライの調整は景気をかえって悪化させると考えている。
彼らは中央銀行はマネーサプライを単純に増やしていくだけでいいと主張する。
生産量の増加に合わせてマネーサプライを増やせば物価は安定し、マネーサプライを減らしてしまうと(短期的には物価が変化しないため)生産量が減り不景気になる。


以上がケイジアンとマネタリストの違う点である。


もちろんケイジアンもマネタリストに反論している。
金融政策は利子率以外の要素に影響を与え、それが景気回復に有効性を発揮していると彼らは考える。