川勝義雄「中国の歴史3 魏晋南北朝」

戦争が終わらない世界。
それは生まれる前からあり、死んだ後にも続き、
祖父の祖父の代から孫の孫の代まで繰り返される。
そんな時代に生まれてしまった者たちはどうやって生きていけばいいのだろうか。


魏晋南北朝時代とはそんな時代であった。
それは西暦200年頃より中国において400年も続いた戦乱の時代である。


漢が腐敗し、世が乱れ、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が起った三国時代はマンガ、小説、ゲームでおなじみのものだ。
しかし、そこから先の魏晋南北朝時代が話題になることはあまりない。


だが歴史から教訓を学びたい者にとっては、これから先の時代の方がはるかに面白いものであると私は断言しよう。
曹操の死後、魏が天下を取り、司馬のクーデターにより晋が起こり、やがて内乱「八王の乱」が起き、内乱に乗じた北方民族に都を奪われ晋は滅び、貴族は南に逃れて中国は南北に分裂した。
それから300年。南でも北でも、王朝が腐敗し、新たな王朝に倒され一族郎党皆殺しにされ、やがてその王朝も腐敗し、次の王朝に皆殺しにされるということを飽きることなく延々と繰り返した。
それは北の隋が南の陳を滅ぼし、はやくも二代目で腐敗した隋が滅ぼされ唐が成立する時まで続く。


この戦乱により人々の生活は困窮し、いつまでも終わらない戦乱に嫌世的な風潮が蔓延した。
しかし同時にこの戦乱は北においては文明化した蛮族による仏教などの新文化の創造をもたらし、南においては未開地の開発や無常感を唱う陶淵明などの詩人、文人をもたらした。
それは南北の文化が融合した上で更なる発展を遂げた時代でもあった。現在の中国の原型ができたのもこの時代である。
戦争や破壊が新しい文明を作るなんてことを主張する気はないが、戦乱が原因で文明の統一がもたらされたことは興味深い事実である。
同じように蛮族の進出により滅んだローマ帝国以降の世界が、キリスト教圏とギリシア正教圏と回教圏とに完全に分裂し、文明の痕跡の非常に少ない暗黒時代をもたらしたのとは正反対である。


この本ではその最大の原因を、知識人の存在に求める。
戦乱の世においても、中国では多くの知識人が存在し、政治や社会に貢献をし続けた。
上の首が頻繁にすげ変わる中において、その下の貴族(腐敗貴族も山ほどいたが)や在野の賢者たちはしっかりと中国を支え続けた。
それが戦乱の時代を単なる暗黒時代に終わらせなかった最大の原因である。


これをもって昔の東洋人は西洋人より勤勉で優れていたと言う者は、まずいないであろう。
東西で人間性に本質的な違いがないとすれば、このような違いを生んだ原因は人間を越えたもっと大きなものに求めた方がよさそうだ。
それは「地理的要因」であったり、宗教の違いであったり、経済構造だったりするのであろう。
(歴史好きの知人によると、ブローデルの「地中海」はそういう視点でヨーロッパ史を見直した名作らしい。いつか読んでみたいものである。)


このテーマは一冊の本で理解し、講釈をたれるには、あまりにも大きすぎる課題なので、ここでは印象に残った部分を備忘録として引用するだけにしておこうと思う。

通貨問題は5世紀の前半から宗王朝では深刻な議論になりつつあった。
政府においても民間においても貨幣が足りない。
物流の交流が盛んになって、貨幣の必要度が増してきたからであり、社会に流れている貨幣の量よりも、より以上の貨幣が必要になってきたからである。


宗王朝はもっともてっとり早い方法をとった。
貨幣の質をだんだん悪くして、法定価値をそのままにしておきながら、数量だけを増していったのである。
「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則が進行した。
貨幣の内側がけずりとられてガチョウの目玉のような大きな穴のあいた「鵞眼銭(ががんせん)」が出まわり、物価は高騰し、465年には商取引もできないほどになってしまった。


宗王朝はこれに対して、以前の良貨幣だけが有効であるとの法令を出した。税金納入にさいしては、良質貨幣しか受け入れないことにした。
これにより良貨がふたたび出まわるようになり混乱は収まった。
しかし政府は貨幣を新しく発行して、不足を緩和しようとはしなかった。


南斉の政府はむしろ苛酷に貨幣を吸い上げた。国家財政の40%は貨幣でまかなわれるほどになった。
465年までの放漫な財政政策とは正反対の、この緊縮政策が、生産者たる農民に与えた打撃は大きかった。


簫子良(しょうしりょう)はこの弊害を政府に警告して、こういっている。
「近ごろ銭は貴重で物価は低下し、以前に比べてほとんど半値に値下がりしている。農民は苦労して生産に励んでも、現金収入は少ない。そのうえ、得た銭はけずりとられたあとの悪質の貨幣である。
ところが政府は定期的に税を取るとき、良質の貨幣で納入せよと命ずる。だが、民間には良い貨幣がひじょうに少なくなっている。
農民はかけずりまわって、自分たちの悪い貨幣2枚を良い貨幣1枚にやっとかえてもらって、税を納めねばならぬ。
貧しい農民のもつ悪い貨幣は、額面は同じなのに半値にも下がって、その苦しみはいよいよはなはだしい。
逆に良質の貨幣をのつ金持ちはますます儲けているのだ」


財政支出の使われる政府に近いところにいるものは良質の貨幣の所有者になり、ますます儲けてゆくのである。
これに反して、政府から遠くはなれるほど悪質貨幣で損をする。
ちょうど金融引き締めのときに、中小企業は銀行からなかなか金を貸してもらえないのに、大企業には多額の融資が出されるようなものであって、現代における信用の二重構造にも似た現象が、5世紀の江南では貨幣の二重構造としてあらわれたのである。

南の梁王朝はこの貨幣問題を解決できず、大量の失業者と彼らの転じた野盗の一団に苦しめられ、貴族は放蕩で財力を食いつぶし、皇帝は仏教に逃避して政を顧みなくなり、とうとう滅びてしまうのである。
デフレにより滅びた一王朝の姿とその民の苦難には、同じデフレの国に生きる者として身につまされるものがある。