ブローデル「物質文明・経済・資本主義」14-19世紀までの世界の人口(旧玄文講再録)

現在、地球の人口は64億6400万人だとされている。


インドには人としてカウントされない統計外の低カースト層の人間がいて、実は彼らを含めるとインド人の人口は既に中国を越しているのではないかとも言われている。
インドに限らず戸籍に登録されない人の数は多いであろうから、上の数は「最低64億人以上はいる」と解釈すべきだろう。


ロンボルグの本で、過去から現在まで地球上に存在した人間の数を合計すると1000億人になると読んだことがある。
この膨大な数を思うと、個性や個人の人生など大海の一滴にも及ばない微小な存在に思える。


その事実に対して、身が軽くなったように感じて気が楽になるか、自分の存在感の小ささに思い至り気が滅入るかは人によりけりであろう。
ちなみに私は前者である。


さて、今回書き連ねる一連のメモは、アナール派の歴史家ブローデルの大著「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」の「人口」について扱った第1章の読書記録である。


この本は15世紀から18世紀にかけて、その時代を生きた市井(しせい)の人々の日常生活、物々交換から市場経済へ変化する過程、100年単位で変化しない普遍的な地理・気候が文明の発達に与えた影響について考察した歴史書である。
地理や家畜の有無、病気の伝播から文明の衰勢を論じた名著「銃・病原菌・鉄」のような本だと思ってもいいかもしれない。


**********************



人口についての考察から、この本は始まる。
何故なら、歴史の発展と人口の増減は相互に影響を与えているからだ。
この重要な数字について信頼にたるデータを集めることを、この本は最初の話題としている。


現在および19世紀以降の人口を調べるのは簡単だ。人口調査を目的としてなされた公的な記録がいくつもある。
しかし、それ以前となるとデータは極端に少なくなる。特にインドやアフリカの記録は少ない。


データがなければ、ある一時期の人口を基準にして、人口の増加率(減少率)を仮定し、そこから逆算して他の時代の人口を求めるしかない。


よって何らかの理由で人口が激増したり、激減した時代のデータを基準にしてしまうと、求まる結果がまるで違うものになってしまう。
例えばアメリカ大陸の人口は征服後、白人の持ち込んだ病原菌のせいで激減したので、その時代の数字を基準にするとアメリカ大陸には太古の昔から人はあまり住んでいなかったことになってしまう。


また中国には徴税目的で集められたデータがあるが、それは世帯単位で数えられており、一家族平均人数を何人とするかで激しく数字が上下してしまう。
また徴税目的ゆえに、人々は過小に報告し、役人は過大に見積もったという事態も懸念される。


面白いことに各国の文明、医療衛生、土地の広さ、産業、平均結婚年齢とは無関係に、世界規模で同時に人口が増減しているように見えることがある。


例えば16世紀にはヨーロッパ、ロシア、アジア、アメリカという条件の異なる多くの地域で同時に急速な人口増加が認められている。
この不可思議なシンクロニシティーは、実は不思議なことではない。
世界規模の要因「気候の変化」が国や文明に関係なく、全ての人々に等しく影響を与えたと考えればいいからだ。


また世界の人口分布の比率が時代を通して、(近似的に)一定とみなせることも気候にその原因を見ることができる。


少なくとも18世紀以前は、各地域に住む人口を決めるのは、人の力ではなく自然の力であった。
政治や文明の変化に依らず、その地域が養える人間の数は気候の変化に依存してきたがために、人口の増減する時代は世界規模で共通しており、人口分布の比率も一定となるのだ。


ヨーロッパ人が飢える時は中国人も飢えて死に、ヨーロッパ人が増加する時は中国人も増える。
実際にルイ14世時代の寒冷気候は、ヨーロッパの穀倉地帯にもアジアの水田にも不作をもたらし、双方の国で飢えと民衆の蜂起をもたらした。


だから技術が自然の力を克服するようになると、この比率は必ずしも守られなくなる。
現代では同じ気候の変化に対して、収穫を維持できる国とできない国がある。


この仮定の下に、当時の世界の人口はヨーロッパの人口もしくは中国人の4、5倍。
アジア地方の人口は中国人の2、3倍と見積もることができる。
(しかし現代でもこれはある程度正しい比率となっている。現代でも気候の影響は大きいということであろう。)
もちろん、これは大雑把な予測であり、予測された数字の上限と下限は数千万の単位で開きが出る。


世界の各地域の人口の変化の趨勢(すうせい)は以下の通りだ。


1)ヨーロッパ(1680年の人口、1億から1億4000万)


時折ペストなどの流行病が人口を激減させ、人口が増えると食糧危機が起き、ヨーロッパの人口は一進一退を繰り返した。
ヨーロッパでは1350年から1450年、1650年から1750年にかけて人口増加率の減少期が訪れている。
1350年代の人口調整は「残酷な減少」であったが、1650年代のそれはゆるやかな上昇であった。


特に1350年代のペストはヨーロッパ人口の五分の一を死に至らしめたという。
しかし労働力の減少は、一人一人がより多くの耕作地を持つことを可能とし、農民の「実質賃金」を2倍も向上させた。
同時に多くの土地を少ない人数で耕したので土地の生産能力は十分に活用されず、逆に実質地代は半分以下になり、地主はの所得は減少した。


だがこの後、ヨーロッパは急速な人口増加を迎え、農民たちは極貧生活に戻ることになる。
ペストの後の農民の幸福な時代はすぐに終わった。


1350年 6900万


1450年 5500万


1600年 1億


1650年 1億3600万


1750年 1億7300万


1800年 2億1100万


1850年 2億6600万


2)中国(アジアの1680年の人口、2億4000万から3億6000万)


満州族による北京攻略の年である1642年以降、大きな戦争で大量に人が死ぬことはなく、外敵の侵入も少なくなり、また開拓と農業革命により人口は急激に増加した。


1680年 1億2000万


1750年 1億8600万


1790年 3億


1850年 4億3000万


しかし人口増加率は耕作可能面積の増加率を上回り、飢えをもたらすようになる。
18世紀から19世紀にかけて清(現在の中華人民共和国)は人類史上まれに見る急激な人口増加を経験した。


例えば広西の人口は1724年に20万2700人余、1749年に368万7000人強、そして1851年には782万3000人強にまでなっている。
わずか20年間で人口が18倍に膨れあがり、その後100年の間に更に2倍の人口になったのである。それに比べて耕地はわずか2割程度しか増えていなかった。
飢える者がちまたにはあふれることになった。


この急速な人口増加の原因は移民の大量増加である。この増加は特に広西をはじめとする台湾、奉天、四川(しせん)、雲南などの辺境で著しかった。移民の多くは客家であった。


客家(はっか)である彼らは広東語とは異なる客家方言を使い、女性も纏足をせずに力仕事に従事し、衣食住の全てにおいて独自の文化を守っていた。
当時の全ての支那人男性が強要させられたべん髪の手入れもいい加減で、髪が伸びすぎてべん髪でなくなっても平気で村を歩く者も珍しくなかった。町でこんなことをすれば間違いなく反逆者扱いされることだろう。


そんな彼らは支配民族である漢人にとっては体内の異物であり、常に差別の対象となる運命にあった。
ただでさえ虐げられる運命にあった彼らは、貧困の原因であるとして徹底的に嫌われた。現在の世界でも多くの国が抱える難民問題がここにはあった。


歴史では、やがてこの客家の中から神を名乗る男「洪秀全」が表われ、差別され飢えた人々を武装蜂起(ほうき)させ、一時は支那の半分を制覇するまでの大反乱「大平天国の乱」を起こしたのであった。
だが妄想にこりかたまった自称「神」は清政府以上の腐敗と横暴で人々を苦しめ、猜疑心から内乱を繰り返し自滅していくことになる。


3)アフリカ(1680年の人口、3500万から5000万)


アフリカは奴隷貿易により人口が流出したが、その数は輸送能力の限界から年間1万人を超えることはなかったと思われる。


エジプト:北アフリカ:アフリカ全土 = 1:1:10 という人口比率を受け入れるのならば、アフリカの当時の人口は2400万から3500万の間と予測される。


4)アメリカ(1680年の人口、1000万)


家畜のいなかったアメリカ大陸では、子供が3歳くらいになるまで母親が哺乳しなくてはならず、そのため出産間隔が長くならざるをえず、他の大陸ほどの人口増加はなかった。


さらに白人との接触は、天然痘、ペスト、黄熱病など多くの病気をもたらした。未知の病気への抗体を持たなかった彼らは次々と死んでいった。


この悲劇のために征服直後のアメリカ人口は1000万人程度しかいなく、17世紀には800万人にまで減っている。


5)オセアニア(1680年の人口、200万)


18世紀まで、この地域の人口に関するデータはほとんどない。
ただ人口200万程度であったろうと予測されている。


*****************



「人の数」の話は、その後、以下のテーマについて論じられる。


1)当時の人口密度
2)飢饉と流行病
3)数の力について


これら3つの話は互いに関連している。
まず飢饉と流行病は同じ現象の表と裏だ。


まずヨーロッパの主要作物である小麦や雑穀は収穫効率が悪く、土地を何度も休ませ、鋤(すき)でならして耕さなくてはいけなかった。


畑を鋤でならすには人力ではなく、牛馬、ロバといった家畜の利用が必要不可欠であった。
しかし家畜はそれ自体が牧草地や大麦など資源を必要とした。作物を得るために作物を投資することになった。
そして家畜は病原菌の源でもあった。ウイルスが家畜を媒介にしてより強力な生物へと進化するのは、現代でも鳥インフルエンザの実例が示す通りである。


つまり飢饉を逃れるために畑を耕し、そのために家畜を利用し、その家畜が疫病をもたらした。これが先ほど言った「表と裏」という言葉の意味である。
だからヨーロッパは飢えと疫病に襲われ続け、人口は一進一退を繰り返した。この本ではそんな多くの飢饉と疫病の記録を紹介している。


それに比べて当時のアジアで爆発的に人口が増えたのは、米が小麦よりはるかに収穫効率の良い作物であったからだ。
多くの家畜を飼い、食べる習慣もなかったので資源を浪費し、ウイルスを養うこともなかった。


疫病について付記しておくと、ヨーロッパ人はアメリカ大陸を易々と植民地化できたのは彼らのもたらしたウイルス、流行性感冒が原住民の多くを殺したからである。死亡者には王族もいたため、現地人の間で内乱が起き、白人に統一的に対抗できなかったということもある。


そしてアフリカ大陸の植民地化を妨害したのは、ヨーロッパ人にとっても未知のウイルス、マラリアや黄熱病が彼らを襲ったからであった。


話を戻すと、効率が悪くても農耕の力は偉大であった。アジアほどではなくてもヨーロッパも確実に人口を増加させていったのだから。


いつの世でも、高い人口密度を実現できたのは定住生活をする農耕民族であった。
子供を多く生むには定住生活が、安定したカロリー源を豊富に確保するには農耕が必須だったからだ。


人口は増え続け、1600年当時、ヨーロッパの多くの地域は既に土地の限界を超えた数の人間を抱えるようになっていた。以下はその人口密度の一覧である。


イタリア     44人/一平方キロ


ネーデルラント  40人/一平方キロ


フランス     34人/一平方キロ


ドイツ      28人/一平方キロ


イベリア半島   17人/一平方キロ


フィンランド   1.5人/一平方キロ


中国       20人/一平方キロ


イタリアとネーデルラントは産業化していたので比較的多くの人間を養えたが、フランスは既に一杯一杯であった。
フランスの生産力では一人の人間を養うためには、1.5ヘクタールの土地を必要とした。
多くのフランス人が外国に流れ、例えば1664年には4万人ものフランス人が自分達の出自を隠して敵対国スペインのマドリッドで暮らしていたという記録がある。
スペインの土地を耕したのはフランス人であったとさえ言える。


人口の増加はインフレを招き、多くの貧民を生んだ。
貧民の一部は社会の秩序を乱す存在として貧者救済施設に収容され、鎖でつながれて強制労働をさせられた。
その他の貧民は勝手に死んでいくだけの存在であり、栄養不足の彼らが疫病で優先的に死んでいくことは神の思し召し(おぼしめし)でしかなかった。


16世紀から17世紀にかけて起きた価格革命、大きなインフレの原因はアメリカ大陸で発見された大量の銀であるとも言われているが。実際の銀の流通量を調べてみるとインフレを説明できるほど増えていないことが分かる。


実際のインフレの原因は人口増加に比べて農作物の生産量が追いつかず、そのために価格の高騰を招いたことにある。
そしてフランスでは当時の多くの戦争、宗教紛争、貴族との内乱、30年戦争、スペインとの戦争等のために何度も増税が課された。
この時代の農民の暮らしは悲惨なものであった。


*****************


そして最後は数の力についての話だ。
ローマを滅ぼしたゲルマン民族、一大帝国を築いた蒙古民族、支那を支配した満州族、大遊牧民が世界を駆け巡った時代があった。
だが彼らの多くは消えていった。
ローマ後の世界を支配したのは非ゲルマン民族たちであった。
満州族は結局、漢民族の数の中に埋もれていった。
東ヨーロッパ人を悩ませた遊牧民は18世紀には強力な銃火器の前に無力化した。
遊牧民はなぜ負けたのだろうか?
それは彼らが農耕民族ではなかったからだ。
それ故に人口密度を増やせなかったからだ。


では何故、人口密度の高低が生き残る国と滅ぼされる国を分け、人類の繁栄を左右する非常に重要な要素となったのだろうか?
その理由を「銃・病原菌・鉄」から要約しよう。


人口密度が高いほど、技術面や社会構成においてより複雑で専門化された集団が形成される。


人口が増え、その上で食料が余れば、生産に直接関わることのない、特殊な仕事に専念する人間を抱える余裕が生まれるからだ。


税を集め巨大な国家事業を実行できる政治家。
戦うことだけに集中できる職業軍人
侵略や諸々の活動に宗教的正当性を与える神官、聖職者。


中央集権国家の維持。
強力な軍隊。複雑な経済構造。
船や城壁、製鉄所などの大型建造物の製作。


つまり数の多さが余力を生み、分業化をもたらし、技術の進歩を実現させ、狩猟民族には不可能な行動を可能にさせた。
そのため農耕民族は遊牧民に勝ったのである。