未練

言葉や記録を残すということは未練がましい行為である。

少なくとも私は何か書いている自分のことを軟弱だと思う。
何も残さず、何も言わずに消えることができないから、誰も読まない、何の興味も惹かない文章でも書かずにはいられない。
昨年、十年ほど勤めていた会社が廃業してから色々なことがあった。

なかでも一番辛かったのは姉の子どもが流産してしまったことだ。
可愛い女の子になるはずだった。
悲しいという言葉以外の感想を私は思いつかない。

そして一番困ったことは、私には悲しいと訴えるべき相手がいないことだった。
姉の流産の報告を聞いた日の朝、私は朝飯を吐いて、
それから派遣先の会社へ行き、普通に仕事をして、家に帰り、それから何もしないで眠った。

私に友だちはいない。恋人もいない。携帯電話は持っていない。家族とは離れて暮らしている。
私は個人的で陰気な話を聞かせる相手を持たない。

私は自分の悲しみが誰にも知られないことを怖れる。
他人と感情を共有できないことを怖れる。
それは自分が悲しい時には、他人も悲しませたいという私のワガママ、私の甘えなのかもしれない。
それでも私は、本能的にそれを怖れざるをえない。

だが、誰にも話せなくても、言葉だけは残せる。
それが一方的で誰にも顧みられることがないものであったとしても
それこそが追悼や墓標には相応しい在り方であろう。

だから私は性懲りもなく、ここに記録を残す。
未練を残す。
悲しみを残す。
感情を残す。
考察を残す。
この恐怖をまぎらわすために。
私は、未練がましい。