震災に備える

天災は忘れた頃にやって来る

この言葉を残したのは、寺田寅彦(註1参照)である。

そもそも人間には近い将来の利益を過大評価し、遠い将来の利益を過小評価する傾向がある。
進化生物学によると、目の前の獲物を逃すと将来にそれを再び獲得することが困難だった原始の時代、人間は自分の本能に目先の利益を重視する性質を刻み込んだのだという。
この原因については憶測の部分が多く検証を重ねる必要があるが、「人は近視眼的な傾向を持つ」という結果の方は確実に検証されている。

日本で、それも首都のある関東地方で大地震が来るのは確実なことである。
だが私たちは例の近視眼的性質から、そのことを過小評価している。
そしていつの間にか、それが「ない」ことにしてしまっている。
十分な時間と費用をかけて対策をしておかなくては、将来に損をするのは確実なのにそれをしていない。
せいぜいが家具転倒防止装置をつけて、たかだか三日分程度の水と粗末な保存食を用意している程度である。

だが本当にしないといけないことは、もっと多くの努力を要する。
あらゆるインフラが静止し、壊滅した状況を体験することになるのである。
生存に必要なものは全て用意しておかないといけない。

水は大量に必要だ。保存用のポリタンクを一人あたり30リットルは確保したいところだ。
水が多くてこまることはない。部屋の容積が許す限り保存しておきたい。
食料は薫製や漬け物、保存食を一月分は用意したい。
それらを消費しながら補充して常に一定量を保つのだ。だが保存食は割高だから家計に直撃する。
地震が来るまでの十年、二十年これを続けると百万円単位で余計な金が要る。
だが保存食というのは意外と美味しく、酒のつまみにもいい。
趣味と実益を兼ねて自分で薫製などを作るのもいいかもしれない。
娯楽の一環と考えれば余分な出費も苦にはならない。

ガスや電気も止まるのだから、燃料は絶対に必要だ。
また家が半壊したのならば、長い距離を移動しないといけない。
輸送手段の車が使えないときのために、大型のナップザックや替え靴が必要になる。
ロープ、ナイフ、ランプ、簡易トイレ、医薬品、工作道具、自家発電機、浄水剤、移動用のスニーカー、、、
必要な道具は他にもいくらでもある。

そしてこれらの道具を一カ所に集めるのも危険だ。
災害発生時に自分がどこにいるかも分からないし、保管場所が建物と一緒に壊滅しているかもしれないからだ。
最低でも二ヶ所に保管場所を分けておきたいところだ。その両方になるべく同じだけの備品を用意するのだ。必要な金額も倍増だ。
しかもその拠点は、いざという時、歩いていける程度の距離の場所に確保しておかないといけない。
東京在住の場合は、23区内に一ヶ所、それ以外にもう一ヶ所が望ましい。

家族がいれば、彼らの家に備品を置くのもいいし、
信用できる仲間がいれば共同で備品を管理すればいい。
もちろん緊急時に人間はエゴイストになるので、消費すると減ってしまう水、食料、燃料は完全に自分で管理しないといけない。
仲間の家に自分の水や食料を置いてもトラブルのもとになるだけだ。
共同で管理するのは使用しても減らないナイフやロープなどの備品だ。

ただ多めに水や食料があれば分配する余裕が出るのも確かなので、
寄付するつもりで仲間のところに水や食料を置き、
緊急時には自分の水や食料を「お情け」で分けてもらうという卑屈な手段も金銭に余裕があればやればいいだろう。
また緊急時に仲間の備品を使い込んだ者への制裁があることをあらかじめ伝えておき、裏切り者を必ず痛い目にあわせることを熟知させることも重要だ。

災害時には通常の多くの道が通れなくなり、交通手段が麻痺する。
あらかじめ拠点間を徒歩で移動するための道を調べておかないといけない。
人口密集地、海岸、山沿いを避け、それでいながら悪路でもない場所。
そういう場所を実際に歩いて確かめるべきである。
これも仲間と一緒にイベント感覚でやれば意外に楽しい、、、かもしれない。

大震災後の一時的な統治機能のマヒにも備える必要がある。
理想的なのは海外に拠点を持ち、そこへ移動することだ。
私たちは中国、韓国、アメリカにそれを持っているが、遠すぎて不便であるし、それだけに頼るのも不安だ。
首都圏以外の国内にも避難場所を確保すべく、思案しているところである。

また暴動や強盗に備えて自衛の手段の確保と仲間との団結は欠かせない。
だが自警団じみたものは暴走しがちだ。
先の震災でも暴徒が朝鮮人を流言に乗って殺害している。そのような事態は避けないといけない。
もっとも私の場合、仲間の多くは大陸系の三国人なので暴動に巻込まれることの方を心配すべきかもしれない。
いずれにせよ無法状態にあるときこそ、尊法精神を重視すべきことを徹底させないといけない。
とりあえず正当防衛はしてもリンチはしないことを約束させるべきだろう。

だが、これだけ準備しても「ごっこ遊び」をしている感は否めない。
実経験を伴わない対策には思わぬマヌケな落とし穴があるものだ。
頭だけで考えたことは、すぐにつまづくものだ。
だから国内外の震災の被災者やそれを救援した団体の体験談を集めて、参考にすることも重要だ。
時間も資金も、いくらあっても足りやしない。

これら全ては、いつかを乗り越えて生き残るために必要なことだ。
だが、いつかは今日かもしれないし、十年後かもしれない。
今回の文章は「かもしれない」だらけである。
不確定な未来に大金と時間を投資するのは困難なことだ。
だがそれはやらなくてはいけないことなのだ。

ところで、このように地震対策をしていることを語ると、たまに
「お前は地震が来ないと困るんだろう」
と言う人がいる。
地震に限らず将来の天災、人災への対策を語ると、その災害を期待していると非難されることがある。
つまり私たちは「地震対策をしている特別な人間」という優越感を持っていて、
それなのに地震が来ないと自分の優越の根拠がなくなるから困るのだという理屈である。

確かに終末思想家が口では神の愛とその寛容と慈悲深さを語りながら、
内心では不信心者が無惨に死に絶える終末を望んでいるということはある。
彼らは「終末の時に救われる特別な自分」に酔っている。
その終末がなければ、彼らは自分の存在意義を失うのだ。
それこそ「君たちは終末が来ないと困るんでしょ?」状態である。

だが地震は神と違って被害者を選別してはくれない。
どれだけ対策をしていても、運が悪ければ地震発生直後に私たちは死んでしまう。
建物の崩壊、大津波、地割れ、震災による事故、火災、突発的暴動。対策しきれない不安要素は山ほどある。
私たちの対策は運良く生き残ったときのためのものだ。
そして私は自分が、その運の良い側に100%いられるわけがないことを知っている。
だから私は地震がくることを期待などしていないし、地震が来なくても困りはしない。
自分が死ぬかもしれない危険は来ない方がいいに決まっている。
だけど、それなのに、多分、大震災は来てしまうのである。

それと言うまでもないことだが、地震対策をしている人間がしていない人間よりも優れているわけでもない。
単に地震対策をしている人間が、していない人間よりも「その時」に困る可能性が少なくなるというだけのことなのだ。

(註1)
寺田寅彦氏は物理学者にして俳人であり、随筆家であった。
夏目漱石と交友があり、「三四郎」の劇中人物、
光量子説を検証するための光線の圧力実験について語る科学者のモデルになったりもしている。

彼は量子力学が全盛の時代に、金平糖の角の形状についてなど
一見地味な自然現象の研究をしていた。
有名人との交流があり、学者としてよりも随筆家としての知名度が高い。
そのせいか今の言葉でいうタレント学者のような扱いを受けているところがある。
だが、彼が金平糖を研究する際に用いた統計力学的手法は、
コンピュータシュミレーションや複雑系相転移・臨界現象が重要になった現在においてもその価値を失っていない。
むしろそのような方法を百年近くも前に積極的に採用した氏の先見の明に驚かされる。

名声を得るには何を研究するかが重要だが、
一流であるためにはどのように研究するかの方が大事だということだ。
科学とは知識のことではなく、物事に対してどのような考え方をするのかという手段のことを指すのだから。

寺田寅彦は正真正銘の偉大な正統派実験科学者なのである。