「社会生物学論争史」

これは「社会生物学」にまつわる論争を追いかけた本である。
しかし本書はそれだけについての本ではない。


「科学とは何か?」
「自分の知る科学が別の人間にとっての科学とはまるで異なるとき、一体どんな論争が起きるのか?」
「実験科学者とナチュラリストの違いとは何か?」
そういうことを考えさせてくれる、より普遍的なテーマを扱った科学社会学の本である。


そもそも社会生物学論争とは何だったのだろうか?
それはウィルソンが「社会生物学」という大著において、人間社会もまた進化による適応の産物であることを示唆したことに始まる。
その適応の産物の中には、道徳的に好ましくないものもあった。
強姦や殺人、戦争もまた人類が進化の過程で遺伝子に刻み込んだ、生き残り繁殖するための戦略かもしれないとされていたのだから。


それは「人間は環境次第でどうにでも変わることができる。人間は可能性に満ちた白紙の石板である。
強姦や殺人は歪んだ社会と教育がもたらすものである。」という当時の環境主義と相容れない考えであった。
そして生まれながらの本性の強調は、社会の不平等や犯罪を正当化し、遺伝的に優れた者だけが権力をにぎるべきというナチズムにつながると彼らは危惧した。
人種差別主義者、ナチズム、女性蔑視主義者、極端な保守主義者。様々な罵倒をウィルソンや他の生物学者は受ける羽目になった。
彼らが現実には社会主義者であったり、フェミニストであったり、黒人を大学に採用するように働きかけたり、黒人と結婚して慈善事業に尽力したりしていることは無視された。


熱心な批判者の多くは左翼系の理想主義的思想の持ち主であった。
彼らの行動は時として非常に攻撃的なものとなる。
日本でも言葉狩りの例にみるように、一部左翼の被害妄想的な糾弾活動は出会う者すべてに噛み付くがごとしである。
この社会生物学論争も、そんな原理主義者たちの過剰反応を引き起こした。
だが、それだけではこの論争の執拗さを理解することはできない。
批判者は偏屈なマルクス主義者だけではなかった。
理性的で、道理の分かった科学者や知識人も、断固とした批判を繰り返し、社会生物学者を道徳の敵として断罪したからである。


ウィルソンは困惑した。
彼は反論を歓迎していたし、論争もするつもりだった。
しかし、それは科学的な反論や議論を期待していたのであり、「道徳の敵」としての批判は予想外のことであった。
ルウォンティン、グールドといった有名な科学者でさえ、彼の非道徳性を非難した。


何故、社会生物学論争においては、科学的議論ではなく政治闘争が繰り広げられたのだろうか?
彼らはウィルソンの学説を科学として認めず、故に科学的議論をしなかったのだ。
そして批判者はこれを科学の問題ではなく、政治的な問題だと信じた。
どうして、彼らはウィルソンのやり方を科学と認めなかったのだろうか?


その理由は、実験科学者とナチュラリストの使う科学は別であることに求められる。
以前に「科学とは何か(1)総論(旧玄文講再録) - 玄文講」で書いたように真実へ至る道は一つではないということだ。


実験科学者は以下の二つのことをとても重視する。
いかなる理論もそれらの洗礼を受けなければ、真実として認めるわけにはいかない。


一、定量的に計測したデータを提示すること。
一、再現性を持つこと。


ここで私は、


優れた実験科学者の素養を持っている理知的な秀才が、ナチュラリスト的なやり方をどのように批判するか。


の好例として、別の書評サイトwad's Book Reviewの文章を引用したいと思う。
サイト管理人のwad氏は興味深い意見を提示してくれる尊敬すべき論者ではあるが、その純実験科学者的発言に私は困惑させられるのである。

例えば、氏が

なお、本書の内容から外れるが、統計学の使い方一般について一言。「トンデモ」という言葉を使いたがる啓蒙家は、「統計学を正しく使え」という趣旨で、「こういう説があるけれども、ちゃんと統計的に処理すれば有意な結果は出てこないのだから、信用するべきではない」という論理を使うことが多い。これは、本書で著者が批判している統計の不適切な使い方であることがしばしばある。科学的なアプローチを装う啓蒙家には注意しなくてはならない。「有意水準に達しなかったために、効果がないという仮説を棄却できなかった」ということは、「その効果がない」ということではない。そんなことは当たり前であるのにもかかわらず、このタイプの啓蒙家は、自分の信念に反しているケースでは、有意水準に達する結果が得られなかったことが、そのまま効果の不在の証明であるかのような言い方をしたがる。一方、普通の科学の実践においては、直観的にその効果がありそうだと思ったら、有意な結果が出なかったとしても「さらなる実験とデータ収集が必要である」という風にまとめるのが常道なのだから、ここにはダブル・スタンダードがある。


 たとえば、「ユリ・ゲラーがテレビ番組で念を送ると、それを見ていた視聴者が手に持っていた、それまで長い間止まっていた時計が動き出した」とか、「大きな飛行機事故の前に、予知夢を見た人が何人もいた」というような逸話について、啓蒙家はよくこんな議論をする。「その番組の視聴者は全国で数百万人、数千万人の単位でいる。その中には、ちょっと揺らしたり温めたりしただけで不意に動き出すような時計を持っていた人が一定の割合でいるはずだ。だから、視聴者のうちの何人かがそういう体験をしたとしてもまったく不思議ではない」。しかし、これはちょっと考えてみればわかるように、「超常的な現象が起きた」とする仮説に対する反論にはなっていない。最初に、「そんなことはありえない」という信念があって、そのような現象が偶然に起きる確率を(ほとんどの場合は実際に実験や調査も行わずに)逆に推定しているだけなのである。また、本書の言葉を使わせてもらえば、これは統計的有意性と科学上の意義を混同した議論である。動き出した時計の1000個のうちの999個までが、そのようなノーマルな因果関係で動き出したのだとしても、残りの1個がノーマルでないメカニズムで動き出したのだとしたら、それは科学的には大きな意味を持つ現象である。

 この話を突き詰めるといろいろと厄介な問題が出てくるのだけれども、この項ではここまでにしておく。まあしかし、世の中に上記のような理屈にならない政治的議論をする人が少なくないことから、論争が多い経済学の分野にもそういう人が多いのだろうなと思ったというわけだった。
ノーベル賞経済学者の大罪


と書くのを見ると、私はその説得の困難さに頭を抱えてしまう。


この論法では、私たちはユリゲラーの自称・超能力を嘘だと考えてはいけないことになる。
証明ずみの知識以外に意味がないとすれば、
私たちは一体どうやって推論したり、仮定をたてればいいのだろうか?
氏の主張する科学を守ると、私たちは山師のイカサマでさえインチキ呼ばわりできなくなる。


ここで私は実験科学者のルウォンティンとナチュラリストのウィルソンの科学的態度の違いについて書いた記述を思い出す。

ウィルソンにとって重要なのは、モデルが現実の「真の記述」であることではなく、モデルの予見的な力(あるいは「適応性」)だった。
けれども、ルウォンティンにとっては、モデルは現実を「正しく」記述していなければならなかった。(P457)


先のユリゲラーの話で言うと、
999個の統計的有意なデータから「多分インチキだ」という真実を予見するナチュラリスト
1個の正しく記述された現実にしか科学的意義を認めない実験科学者との深い溝が見える。


統計データのほとんどがその現象を否とみなし、有意な水準に達していれば、それを近似的な事実として認めるのに十分である。
完璧な正解が望めない、つまり定量性や再現性のない現象を扱う科学は、歴史を振り返って定性的な議論を行い、統計データをもとに近似的な正解を求めていくのも有効な方法である。
「残りの1個がノーマルでないメカニズムで動き出した」ことを証明できないから、それは「理屈にならない政治的議論」だなんてアンマリである。


つまり、この話は「善い科学」から導かれた結論ではないので、科学的な結論ではありえない。
だから、この話は個人的な信念を表明しただけの政治的な発言に過ぎないと言っているのだ。


そこには過去の社会生物学への批判者たちと同じ論理が見える。
彼らも、
「ウィルソンは「善い科学」を行っていないので、彼の主張は科学の話ではなく、自分の偏見に科学的根拠があるようにみせかけている政治的なものに過ぎない。
だから彼の著作に対して科学的な反論をする必要はなく、その非道徳性を政治的な問題として糾弾すればいい」と考えたのだ。


彼らがウィルソンに抱いた感情も

世の中に上記のような理屈にならない政治的議論をする人が少なくない

というものであったのだろう。
これがウィルソンの期待したような科学的反論が得られなかった理由である。
そもそも批判者たちはそれを科学だとは思っていなかったのであるから。
そしてウィルソンがこんな非科学的な方法を採用したのは、個人的な差別的信条を正当化したいという邪悪な動機があったからにちがいないと思い込んだのだ。

社会生物学者たちが示唆する「適応話」は当然ながら、批判者たちの「確実なデータ」という観点からすれば、真面目な科学を意図するものではありえず、したがってただちに、科学外の、政治的な懸念に動機づけられたものではないかという疑惑がもたれた。(P463)


そして、科学を装った政治的に邪悪な人間には政治的な断罪を下すのみであった。


工学出身者が経済学につらく当たる理由も、これで説明ができるであろう。
彼らから見れば、経済学者の定性的な議論は、再現性も定量性もない証明不可能な政治的議論に見えるのだ。


ちなみにwad氏は社会生物学には理解を示している。
それは最近の社会生物学の発展がゲーム理論に基づいた十分に定量的データも提出できるようになってきたからであろう。
そして氏は常に実験科学者としての厳しい態度を崩さないでいる。氏はマクロ経済学者の定性的な議論に対しては

マクロ経済学の一般向けの本では、この実証の部分が非常に貧弱なことが多く、この本もその例外ではない。
経済政策とマクロ経済学

この本だけを読むと、国際経済学はいまの世界が直面しているもろもろの問題を正面から捉える(というかおそらく定量化する)能力を持っていないのだという印象を受ける。まさかそんなことはないと思うので(もしかしたらそうなのかもしれないが)、この本ではわざと省略しているのだろう。うーむきわめて「と学会的」である。
経済対立は誰が起こすのか

これは政治的発言か?
クルーグマンの良い経済学悪い経済学


と非難する一方で、定量的にデータを扱う計量経済学の本には星を5つ付けて賞賛するのである。
日本の経済発展と金融



世の中には実験科学者とナチュラリストのいさかいがいたるところに存在しているのである。


(参考:社会生物学論争史の書評ではhttp://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/sociobiology.htmlがよくまとまっていて、分かりやすい)