Yの自殺

近頃、ひんぱんに死んだ友人のことを思い出す。
列車に飛び込んで自殺した友人のことを。
奴の顔を思い出すと、葬儀で最期に見た、眉間から頬にかけて赤い亀裂の走った顔ばかり脳裏に浮かぶ。


本人の短い遺書によると死ぬ理由は「無し」。とにかく死ぬそうだ。
周囲によると「就職できずになやんでいた」との証言あり。
だから新聞には就職難を苦に自殺と書かれた。
だが再び本人の遺書によると「就職は理由ではない」との記述があった。


わざわざ遺書に書くのだから、本人も自殺したら就職を苦にしたものだと騒がれたくなかったのだろう。
それでも結局は就職難だということになった。
理由もなく死なれると、残された側は困惑してしまうので理解しやすい動機が必要だったのだろう。
本当のところは何も分からない。
ただ他人の考えを理解することの不可能であることを知るばかりである。


他人の考えていることはよくわからないし、期待した意図は正確に相手に伝わることはない。
ましてや死んだ者の感情なんて空想の人物の感情と変わるところがない。
既存の記録を頼りに、一方的に予測することしかできない。
「世の中は勘違いで成り立っている」というのが私の考えなので、それを特に悲劇だとは思わない。
ただ「勘違い」がなるべく事実に近いものになるように努力すべきだとも考えている。


私は昔から奴のことが理解できなかった。
もう15年前のことになる。
私たちが学生だった頃、奴は一人の少女に恋をしたことがあった。
相手は通学路で一瞬すれちがうだけの女学生だ。


その名前も知らない少女をほんの数秒間ながめるためだけに、奴は毎日、放課後に一時間から二時間も彼女を通学路で待ち続けた。
そして、その待ち時間の暇つぶしの話し相手として、私も毎日 一時間から二時間 奴につきあわされた。


それは四ヵ月も続いたから、私たちは4×26×5秒(女学生が通り過ぎる時間)=520秒間のために4×26×1.5時間(平均的待ち時間)=156時間もの時間をつぎ込んだことになる。
150時間以上、私は奴としゃべり続けたわけだ。改めてバカバカしいことであったと思う。
そのせいで私は無駄に奴について詳しくなってしまった。


その効率の悪い情熱を理解できない私がそれを揶揄(やゆ)すると
「お前も恋をすれば分かる」
と、奴はありきたりなセリフを言ったものだった。
しかし奴には申し訳ないが、未だに私はそれを理解できていない。
あれがそんなに良いものであった記憶はないのである。


奴は思いついたことをすぐに実行に移す直情型の人物だった。
好きな女の子の前で二階から飛び降りたらカッコいいと思い込んで(何がカッコいいのかは理解不能)、その実行を止めさせるのに苦労した覚えがある。
その行動力が良い方向に転んだときは、集団の先頭に立って物事を引っ張った。
自分から行動しない私は、奴が突き進んで散らかった場所を掃除する係ばかりやっていた。


また、奴は何事にも公平に正面からぶつかるタイプで、いつも自分たちが公明正大であることを望んでいた。
「必要悪」という言葉を好み、裏で下準備を整えることを良しとする私とは正反対の奴だった。
そんな価値観の違いからケンカ別れをして、その後、私は小賢しく行動することの限界を知った。
詳細は書かないが、とにかくつまらないことをして色々と他人様に迷惑をかけたのである。
百の小細工を使った勝利は一時的なもので、最後に残るのは公正な契約により得たものだけであることを痛感した。
必要悪と言う言葉は今でも好きだが、公明正大であることの価値も知った。奴はそこそこ正しかったのだ。
失敗を通して他人の行動の意義と価値観を知り、「勘違い」をより事実に近づけることができた。
有意義な体験だった。
奴にはどこかで会うこともあるだろうから、その時には私は自分の敗北を知らせようと思っていた。
だけど奴は死んだのである。


奴はどうでもいい悩みを出発点にして、それを壮大な悩みに発展させることがよくあった。
そうなる頃には元の悩みなんかどうでもよくなっていて、ひたすら「人生とは」「自分の行動にどんな意義があるか」なんてことを考え続けるのだ。
おそらく就職難はその出発点だったのだろう。
死ぬほどの悩みは始めからどこにもなかったのだ。
私はそう思っている。
この結論も勘違いの一つなのかもしれない。
それを問いただす路上での待ち時間は、今はもうない。