日本で暗殺をしてはいけない理由について

私は昔、暗殺やテロがいけない理由について悩んだことがある。
テロは無条件で悪いことになっているが、その理由が私には分からなかった。
しかし私は最終的には暗殺をしてはいけないと結論づけた。
終生実行しないことにした。
だからこそ、私はここにこれを書くのである。
もし実行するつもりがあれば、胸に秘め続けるだけのことなのだから。


今回はその結論に至るまでの考察を簡単にまとめてみたいと思う。


さて、テロと言っても種類は様々だ。


互いに戦争している国で、豊富な武器を持てない側が取る次善の手段としての特攻をかける場合もある。
この場合、金持ち国が銃で相手を殺せば戦争だからという理由でおとがめ無しで、貧乏国が爆弾抱えて自爆すれば卑劣なテロだから許されないなんてことになる。
一般市民を巻込むからテロはいけないと言う人もいるが、戦争だって空爆で大勢の一般人を殺す。
これは某聖地のことを言っているわけであるが、この場合大事なことはお互いの戦争行為を終わらせることである。
それなのに片方だけを悪辣なテロリストとして断罪し、もう片方に戦争を続ける大義名分を与えてしまうのはいかがなものかと思うわけである。


確かにこの世には許せないテロもある。
発展途上国や政情が不安定な国では、反政府勢力が一般市民やODAの人間を対象にした虐殺を行うことがある。
しかも、それは景気が良くなったり治安が回復したり、世の中が明るくなった時に行われる。
今のイラクで起きるテロも一般市民を狙ったものが多い。
何故、本来守るべき自分の国の仲間を殺すかといえば、それは偽りの平和に安住している者を目覚ませるためなのだ。


彼らの理屈はこうだ。
「今の政府は間違っている。
だから今の政府の下での好景気も平和も間違っている。
そのようなものに満足して、現政府を認めてしまう国民は騙されている。
だから国民を殺し、治安を悪化させ、不況を招き、国民が現在の政府に満足しないような環境を作ってやらないといけない。
これこそが偽りの平和に安住しがちな無知蒙昧な民を正しい方向へ導くことになるのである」


反吐(へど)のでるような連中である。
しかしアメリカの戦争行為には怒るのに、何故かイラクでテロをする人間にはあまり怒りを感じない人もけっこういて、
彼らは別にイラク国民のことなんかどうでもよくて、単にアメリカが嫌いなだけなんだろうと思ったりするわけである。


そして私が数年前に、してはいけない理由を考えていたのは政治的なテロである。
ある政策や方針を変えさせるために、議論で相手の方向性を転換させるのではなく、その死でもってそれを終わらせる。
それがこの種のテロである。


具体的に言えば、私は日本銀行総裁を暗殺してはいけない理由が欲しかったのである。


当時、日本銀行は明らかな失策を続けていた。
基準の不明確な物価指数を使い、デフレを終わったことにして、金利をあげて景気の息の根を止めたのだ。
これにより失業者は増加し、犯罪は増え、企業は倒産した。
それは日本中に不幸をまき散らしていた。
今でも当時に不幸にならなくて済んだはずの人たちの顔が脳裏に浮かぶ。


そして、ある日、就職できなかった旧友が自殺した。
自分で勝手に死んだのだから同情する必要はないと思ったが、もしかしたら彼が死なないで済む世界があったかもしれないと考えた。


ところでスティーブン・キングの「デットゾーン」という小説(と映画)がある。未来を予知できる男性が主人公の物語だ。
物語の最期で、その主人公は現在のアメリカ大統領候補が和平交渉が成立したのに核戦争を始める人物であることを知ってしまう。
彼は知り合いの医者に相談する。
「もしナチスを起こす前のヒトラーにであったらどうする?」
彼の質問に医者は答える。私の仕事は命を救うことだ。だからヒトラーを殺す、と。
彼はそして大統領候補の暗殺を決意するのだ。


未来に明確な害悪をまき散らす存在がいて、それを止める手段が暗殺しかなければそれを実行するのは悪いことだろうか?
そこで改めて問おう。このようなテロが許されるのは、どのような場合であろうか。


たとえば紀元前ローマ帝国
ローマ皇帝は終身制で、一度即位してしまうとどんな愚帝でも変えることはできなかった。
現代の民主主義国家や企業ならば、ダメな政治家、経営者はリコールしてやめさせることができる。
だが終身制ならば死んでもらうしかない。
つまり、この場合の暗殺は辞表勧告なのである。
現代の「肩たたき」は、当時には「首切り」だったわけである。
暗殺しか政治に参加する手段を与えられていないのならば、暗殺を選択するのは仕方のないことである。


しかし逆に言えば、暗殺以外にも辞表をせまる手段のある現代では暗殺をしてはいけないことになる。
ダメな政治家は選挙で落選して退場し、
ダメな経営者は市場で倒産して退場する。
現代において私たちは、自分の失敗には自分で責任を取ることになっている。
だから、他人が強制的に失敗の責任をとらせる暗殺なんてする必要はない。
この世界で暗殺を選択する者は、自分の主義が受け入れられない腹いせに怨恨殺人をしているだけに過ぎないのだ。


だから日本では暗殺なんて愚劣なまねは絶対にしてはいけないのである。
そもそも小説なんかを持ち出して暗殺を正当化するのが幼稚な考えで、空想と現実を比べるのが間違っていたのだ。
核戦争は起きてしまえば取り返しがつかないし、責任者の追求どろではない。
だが不景気ごとき、数千万人の人間が十年ばかり苦しむだけである。不景気の現況を招いた人物は不名誉とともに退場するであろう。
暗殺ダメ、絶対。
メデタシ,メデタシ。
、、、となるはずだった。


しかし日本銀行総裁を見ていると、その考えが揺らいでしまうのであった。
山形浩生氏はある種のボランティア団体が暴走してしまう理由について、彼らが「何に対しても説明責任を負っていないからだ」ということを言っていたことがある。
彼らは自分たちの行為の正当性を自分たちが信じるだけでいいから、他人の迷惑になるような行為でも平気で行い、なんら有益な結果を出せずにいても知らんぷりをしていられる。
これは政府が主導して行う産業政策にも言えることだ。利益を出さなくてもいい。つまり株主に対する説明責任がないから赤字を巨大化させても平気な顔をしている。赤字を怖れない経営が上手くいくわけもなく、彼らの政策はほぼ失敗してしまうのである。


このように「説明責任」の有無は、その団体や人が健全でいられるかどうかを分ける重大な要素なのである。
そして私は先に述べたように、説明責任を持っている人を決して暗殺してはいけないと結論づけていた。
なぜなら彼らは説明ができなくなった時に自然消滅していくのだから。


そうした視点から今一度、日本銀行総裁を見たとき、私は困ってしまうのである。
金融政策に何度失敗しても、おとがめ無し。
企業ならば業績を悪化させれば辞めさせられるはずなのに、日本の景気を悪化させても自分の地位は安泰。
政府と独立しているから国民経由で辞めさせることもできない。
後任人事で非政府よりの人間を選び続ければ、事実上の終身制状態。


金利政策を事前にリークさせるという不祥事を起こしても説明責任なし。
上方バイアスのある物価指数を使ってデフレが終わったと強弁する理由についても説明責任なし。
資源配分の歪みを直すと言いながら具体的に何をするかについて説明責任なし。


今までも、これからも害悪を巻き散らす。
辞めさせることができない。
説明責任を負わない。


「あれ?これなら暗殺しても、、、いい?」
そんな結論が出ると私は困るのである。


そこでもう一度私は考え直してみる。
先ほど私は辞めさせることができない、と書いたがこれは本当だろうか?
嘘だ。
そんなわけはない。もし国民の多くが不満を抱き、声を挙げたら辞めざるを得なくなるし、後任人事に同じ路線の人間が選ばれるわけもない。


たとえば現代のジンバブエ
年率10万パーセントを越えるインフレが続き、それなのに商品を値上げすると「インフレ警察」に逮捕されてしまうから赤字で物を売らないといけない。
だから刑務所には商品を正当な価格で販売した犯罪者であふれかえっている。
野党が集会を開くと暴力で弾圧し、言論の自由はなく、暗殺も行われる。
治安は悪化し、産業は崩壊し、飢餓と物不足が国中を覆っている。
国民の誰もが現大統領のムガベを望んでいない。
もし今月末の選挙でも彼が選ばれれば(明白な不正がなければ彼が選ばれることはない)国民には彼を暗殺する権利がある。
国民の声が届かないならば、それしかない。


だが日本は違う。
こんな「暗殺」なんて物騒なタイトルをつけても秘密警察に連行されることもない。
(もちろん犯行予告なんかするアホは逮捕されないといけないが)
言論の自由がある。
国民の声が届かない場所なんてありはしない。


日本では金融政策の重要性はまるで無視されている。
貿易の話題はよく出るのに、それが貯蓄と投資のバランスの問題であることに触れる議論はほとんどない。
ユーロの理念を褒める論調は多いが、それが金融政策の自由性を奪うことに言及する人は少ない。
デフレが悪いと言うが、それを終わらせる手段が金融政策であることを知る人は少ない。


誰も声をあげていないのだ。
だからあんな総裁ばかりが出てくる。
なんのことはない。悪いのは私たちなのだ。
私たち皆が悪いのだ。
日銀総裁を一人責めるのはお門違いだ。
私たちが自業自得で苦しんでいるだけであり、暗殺なんて逆恨みもいいところである。
私の何と愚かなことか。
ただ一人の友人が死んだ理由をかぶせる相手を探して、友情ごっこをやって、悲劇のヒーロー気取りをしていた。
我ながら、バカだ。
アホだ、クズだ、マヌケだ、無能だ、幼稚だ、浅はかだ、愚かだ、ゴミクズだ、下品だ、無教養だ、田舎者だ、ど低能だ、ゆとりだ、厨房だ、胴長短足だ、チビデブメガネの猫背野郎だ。


死んだ人間のことなんてどうでもいい。
不幸になった人のことも気にする必要はない。
過去の清算のためだけの、非生産的な暗殺をするバカに成り下がってはいけない。
大事なのはこの先に生きる人の平和だけだ。
私は目先の平和のことを気にしよう。
そのために上に届く言葉を作る方法を考えよう。


以上が私の考察の過程である。