私が日本ユニセフに寄付する理由

私は日本ユニセフに年6万円を寄付している。
たいした金額ではないので胸をはれることではないのだが、年収200万ばかりの私にとっては少ない額ではない。


そして私は日本ユニセフがなかなかの「クソヤロウ」であることも承知している。
寄付金集めに使うダイレクトメール攻勢はまるで詐欺商法のやり方であるし、
アグネスちゃんの笑顔を見ると何故かドス黒い気分になる私のような人間には日本ユニセフの広報は嫌悪感の対象でしかない。
日本ユニセフとつながりのあるとされる某宗教団体も好きではない。


だがその広報活動をもって、日本ユニセフは寄付金を子供の救済以外に浪費している詐欺団体だと非難するのは度が過ぎている。
寄付金集めに広報は必要であり、寄付金の1割から2割を使用するのは妥当なところだ。
たとえ日本ユニセフがアグネスちゃんに数百万の公演料を払っていたとしても、私は「自分の寄付金が個人的に嫌いな彼女の懐に入った」と怒りはしない。
アグネスチャンの公演で数百万以上の新たなる寄付金が集まれば問題はないのだから。


日本ユニセフへの寄付金の七割以上は本家のユニセフへ届けられ、ある程度が現場で活動する医師、技術者、交渉人の活動資金になる。
頭の中で可哀想な子供に同情しているだけの私たちや理念先行の活動家と違い、現場で活動する彼らは綺麗ごとだけで済まない現実を知った上で、それに対処する方法を知っているだろう。
私は現地で実際に活動している人には期待しており、彼らの役に立つならば、それは無駄金ではないと考えている。


そもそも寄付相手に絶対の無欠なるを求めるのが間違いなのである。
お金というのは集めるよりも有効に使うほうが難しいのだから。
私の少ない額の寄付のさらに少ない一部でも有効に使われればそれでいい。


子供を救うは大人の義務である。
私は他人に対して同情することは少なく、
「このままでは死ぬしかありません」と泣きついてきた人に対して「それでは死ぬとよろしい」と答えたこともある。
もちろん不慮の天災、人災に襲われた仲間は助けるが、他人の個人的な失敗まで助ける気はない。
大人はどんなに理不尽でも、不公平な環境でも、自分の力で生きていかないといけない。
不況は金融政策の失敗の結果であり、彼らの苦境は彼らだけの責任ではない。
だからといっていちいち助けてはいられない。私は自分ひとり支えるのがやっとだ。


だが子供は違う。
子供はまだ人間ではないので、人間である大人が無条件に愛し保護しなければならない。
例外はない。男児も女児も、かわいい子も醜い子も、富める子も貧しい子も、良い子も悪い子も、全てだ。
あの人間未満のぶよぶよした物体どもは皆等しく価値のある存在だ。
自分を支える杖しか持たないのならば、それを投げ与えるのが当然のことなのである。


そのような他人にはあまり理解されない倫理観の下、私は子供を助ける手段の一つとして日本ユニセフに寄付をしている。
あそこは最良の団体ではなく、良い団体でさえないかもしれず、だが有効な団体であると私は認識している。