言論の自由について

私は言論の自由を大事にしたい。
それは私が他人を際限なく罵りたいからであり、また好き勝手に罵倒されたいからである。 
人に会っては人に噛み付き、仏に会っては仏に噛み付く。
今日は陰謀主義の左翼に石を投げ、明日は歴史修正主義の右翼に石を投げる。
全ての他人に自由にケンカを売りたい。
だから私は言論の自由を好む。


だが言論の自由と脅迫、恫喝は異なるものである。
私の定義する「言論の自由」とは言葉をもってのみ相手の価値観、行動に影響を与える行為のことである。
どれだけ強く罵ろうとも、決して相手の生命、財産、地位、日常の活動を侵害することがあってはいけない。
言論の自由において、使える武器は言葉だけだ。
だから相手が耳をふさぎさえすれば、それは「無い」に等しいものにならなくてはいけない。


だから数の多さ、声の大きさをもって他者に影響を与えようとするのは言論の自由ではない。
それは脅迫や恫喝と呼ばれる行為だ。
それは人々が声をあげるという意味では民主的な行動かもしれない。
だがそれは民主的な暴力でしかない。


光市母子殺害事件弁護団を免職させるために署名を集めた行為。
平安遷都のマスコットを撤回させるべく彫刻家や運営側に抗議した行為。
橋本知事に批判的な言動をした左翼運動家の女性職員への苦情を役所にねじ込む行為。
最近の事例では、これらが民主的な暴力であった。
いずれも正規の法や手続きを無視し、自分たちが正義であるという信念だけを根拠に、とにかく大声をあげて自分たちの主張を実現しようとしている。
それなのに彼らは自分たちの行為を「言論の自由」だという。


まさか。
それは、そんなものではない。
言論の自由とはもっと無力なものだ。
署名も抗議も「言論の自由」には不要なものだ。
ただ言葉だけをもって「私が悪うございました」と言わしめる。
説得して相手を納得させる。
それだけが言論の自由のやり方であり、勝利である。
そして相手の批判に完全に納得できることなど滅多にあることではなく、故に言論の自由は勝利すること極めて少なしなのである。


だからこそ現実の世界では勝利しないといけないので、私たちは「言論の自由」以外の多数の暴力的手段を必要とする。
民主的な暴力もその一つだ。


私は言葉だけが自分の武器であってほしいと願っている。
だが残念ながら私の武器は言葉だけではない。
実際に問題が起きれば、数の力にも、権威の力にも頼るし、武器も使えば、法も利用する。そして言葉にはあまり頼らない。
説得するよりは、黙らせたほうが確実な場合がほとんどだ。
それが現実だ。


だが、いくら必要だからといって暴力を野放しにはできない。
だからこそ「手続き」を守ることが重要なのである。
それを無視して、気に入らないからとにかく声をあげて物事を思い通りにしようとする。
そして、その無軌道な正義の暴力を「言論の自由」で正当化する。
そんなことを許していては、日本は人民裁判が横行する国になってしまうであろう。


だから私は、彼らが「言論の自由」という大義名分を使うことを危惧するのである。


【追記】
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=8986
において上と似たような話題を見つけた。


痛いニュース(ノ∀`) : 【青学准教授】 光市母子殺害事件の「被害者は1.5人」赤子は0.5カウント - ライブドアブログ
という発言に対して、大学そのものへ抗議活動をしている人がいるようだ。
これも言論の自由ではなく、単なる恫喝である。
相手の発言が間違っているならば自分も間違ったことをして許されると勘違いしてはならない。
相手が間違っているのならば、それに反比例して自分たちは正しい態度を取るべきである。
一緒にバカの沼に腰まで浸かって泥をかけあう必要はない。


苦情対象の所属する組織に圧力をかけるのは言論の自由のためには避けるべき行為である。
何故なら、もし組織が所属する個人の言動に責任を取らないといけないのなら、組織は旧ソ連時代のような監視体制を作らないといけなくなるからだ。
たとえばあなたが勤める会社や学校が、あなたの発言を事細かに監視し、警告を発することになるだろう。
組織が所属する個人の発言に責任を取らないといけないのならば、それを管理する義務も生じるからである。
もし上のような抗議活動が一般化すれば、企業や組織は望まなくてもそういうことをしないといけなくなる。


今、大学に直接抗議活動をしている人間は、自分たちがしている行動が暗黒の未来をもたらすことを自覚するべきである。
地獄への道は善意でなんとやらである