貨幣その1「その役割」(旧玄文講再録)

お金というものは不思議である。
あの精巧な印刷がされている紙切れにすぎない物が、実質的な価値を遥かに上回るものとして扱われているのである。
だって千円の原価は14円20銭、5千円の原価は20円20銭、1万円の原価は21円70銭でしかないのである。(ところで1円玉の製造コストは2円もする。)
それが世間に出回ると500倍弱の価値にはねあがり、私たちはそれを疑うこともなく使っている。不思議である。


これを不思議に思った経験のある人は多いであろう。
たとえば歌手の未映子さんも不思議がっている


小賢しい人は「あんな紙切れに振り回されるのは卑しい人間だ。本当に価値あるものはお金ではなく精神の清らかさである」と言ったりする。
しかし私はこの手の発言には異義を唱える。その理由は後に記す。


まず考えるべきことは「お金、つまり貨幣とは何だろうか?」である。


貨幣の役割は3つある。


交換手段


古代において取引は物々交換が主流であった。しかしそれでは相手の欲しい物と自分の欲しい物が一致していなくては契約が成立しない。


それに比べて貨幣を用いると、自分さえ欲しいと思えば契約は成立する。
(もちろんお金が足りない、相手がいくら積まれても売りたくないという場合はある。しかし取引成立の可能性は物々交換より遥かに高くなる。)


物の価値を計る尺度


この世に溢れる物体には価格がつけられている。
たとえば私たちは「このパソコンの価格いくらですか」という問いかけに対しては「20万円です」とは答えても、「CD100枚分です」とは言わない。
つまりそれは単位である。
重さの単位はkg、長さの単位はm、そして「財の価値」の単位が「円」や「ドル」などの貨幣なのである。


そして貨幣は「洗濯をする」「食事を作る」といった物以外の形のないサービスにも価値をつけられるのである。


価値を保管する手段


簡単に言えば貯金である。米や野菜では腐ってしまい保存できない。物は年月がたてば中古品として価値が急落する。
それに比べて貨幣は持っていても価値が激しく下がったりはしない。
逆に言えば価値が暴落しさえしなければ物も「価値の保管手段」になりうる。名画、貴金属、高級玩具などがそうである。
そして貨幣も激しいインフレで価値が暴落すれば「価値の保管手段」にはならず、人々はこぞって貨幣を手放すようになるのである。