宮崎市定「雍正帝(ようせいてい)」

雍正帝最良の独裁政治を行い、それゆえに独裁政治の限界を示すことになった中国清王朝の皇帝である。


彼は皇太子たちとの政権闘争の果て1722年に皇帝になると、反目する兄弟に「豚」と「犬」という名を与えて独裁君主となった。
そしてこれより彼の手で清王朝は最盛期を迎える。
宮崎氏に言わせれば、名君として有名な乾隆帝(けんりゅうてい)は先代雍正帝の遺産を食いつぶし、グローバル経済に乗り損ねて財政を傾け、官僚の腐敗を許し、後の清朝崩壊の下地を作った凡庸な皇帝に過ぎない。
戦争をせず、贅沢もせず、安定した世の中を作ったせいで、武功も文化事業への貢献もない無名な皇帝として忘れ去られる雍正帝は哀れである。


雍正帝は自分の天命を信じ、少数民族である満州族で大多数の漢民族を統治する困難を自覚し、頽廃が進んだ官僚組織を正し、万民に対する責任をまっとうすることを誓った。
彼がそのために用いたのが独裁政治であった。
全ての決定権は彼にあったが、それは彼が他人の話や忠告に耳を傾けなかったことを意味はしない。
何故なら彼は最良の独裁政治家であり。猜疑心に捕われ取り巻きの言うことしか聞かず、視野狭窄に陥る凡百の独裁家とは違うのだから。
むしろ彼は聞きすぎと思えるほど他人の意見を聞き、政敵を言葉で説得しようと努めた皇帝なのである。


その証拠が「石朱批論旨(しゅひゆし)」だ。


それは皇帝と全国の官僚の間で交わされた私的な往復文書である。
雍正帝は多くの官僚に報告書の提出を義務づけた。
そして更に雍正帝はそれらの文書の全てに赤字で注釈を入れ、返書を送ったのである。
彼はつまらない世辞を書く官僚を叱り飛ばし、罵倒の限りをつくした。
本来は皇帝に意見を述べることを許されない中級以下の官僚からも広く文書を求めた。


雍正帝は膨大な文書の一部を本にまでしている。
官僚は後世に名声を残そうと自分を美化した記録だけを残そうとするものだ。
しかし雍正帝はそれに対して
「普段のお前らがどれだけバカで間抜けたことばかり書いていたかキチンと証拠を残しておいてやる。後でいくら自分を美化しようとしても無駄だ」
という意図で彼らの書を残したのである。
こんな意地の悪い皇帝に仕えていたのでは、無能な官僚は生きた心地がしなかったことであろう。


彼は全国の官僚から寄せられる文書をもとに、農作物生産量から官僚の評判まで全ての情報を把握していた。
雍正帝は正しく世界を認識しようとした皇帝なのである。


こうして官僚の腐敗は追及され、有能な官吏は取り立てられ、民は公正な統治の下で農業と商業に励むことができた。


雍正帝はわずか13年の治世で彼はこの世を去る。
彼は治世の間、毎日の皇帝としての仕事をこなし、その上で中国全土から来る膨大な量の報告書に眼を通して、赤字を入れ、返書を書くのである。
雍正帝は朝四時に起きて、深夜に寝るという生活を毎日過ごしたという。
彼の死因が過労にあることは疑いようがない。
しょせん独裁制では広大な国を運営することは不可能であった。


雍正帝の善政があったため、後の腐敗した清朝政府は延命に延命を重ねた。
もしも雍正帝が名君でなければ、清朝はあっけなく崩壊し、太平天国の乱や袁世凱から始まる内乱と腐敗の時代はなかったかもしれない。
そうなれば現在の中国もまるで違う国家になっていただろう。