科学とは何か(1)総論(旧玄文講再録)

科学というのは何だろうか?

客観的な事実の集合だろうか。世界で起きている現象を明快に説明してくれる百科事典だろうか。


私が思うに、科学とは『結果そのもの』のことではなく『結果に至る手段』の名前である。


科学とは真理ではなく、真理を求める人間の『姿勢・態度』のことに他ならない。


だから結果としての知識や説明をいくら積み上げてもそれは科学ではない。そして扱う対象がどれだけ荒唐無稽であっても手続きが合理的であるならばそれは科学と言える。


たとえば元素記号を全て覚えたり、法則を知ったり、歴史の年号を暗誦しても、それは科学をしていることにはならない。
もちろん知識が豊富なのは誇ってもいいことであるし、博学な人は大いに役立つ素晴らしい人材である。
しかし一般には理学の知識が豊富な人をもって科学的だとみなす傾向があるが、それは実は科学とはあまり関係がないことなのである。博学と科学は別のことなのである。


一方で世間では科学とは思われていないものでも、科学と呼びうるものが存在する。
この世にはテレパシーやサイコキネシスなどの心霊現象や超能力を扱う『超心理学』なる分野が存在する。
これを単なるオカルト趣味のいかがわしい団体と思うのは間違いである。
既にこの学問は100年以上の研究の歴史を持ち、超心理学会なる一分野を築いている。


しかし100年の研究の歴史において、彼らはただの一度も超能力を立証できたことはない。超心理学者の研究人生とは挫折の繰り返しだけでできている。
一度も成功しない研究に人生を捧げるのは絶望的に恐ろしいことだろう。科学の世界にわずかなりとも関わっている私には、彼らの絶望と恐怖が痛いほどよく分かる。


超心理学者はかつてユリ・ゲラーの登場に歓喜し、これでサイコキネシスが立証できると大騒ぎしていたこともある。
正直に言うと私は超能力を信じていない。少なくともユリ・ゲラーは正真正銘のただのマジシャンである。そんな山師のイカサマごときも見抜けない『超心理学』なる学問は実に哀れな学問である。


しかし彼らが事実から遠いことをもって、彼らが科学者でないと言うことは出来ない。
彼らが確固たる合理的手続きを踏んで研究している以上は、彼らには科学者を名乗る立派な資格があるのである。


つまり科学とは結果ではなく結果を得るために用いられる道具の名前なのである。


だから求める結果が異なれば使う道具も異なるのは当然のことである。
たとえば数学と物理学では使う『科学』は異なるし、同じ物理学でも『理論』と『実験』や『高エネルギー領域』と『低エネルギー領域』では、やはり違う『科学』を使う。


歴史学に至っては誤解を招く言い方をあえてすると『超心理学』と同じく事実から遠い学問である。社会学も経済学も文学も同様である。しかしやはりそれらも『科学』なのである。


科学といえば論理的な思考のことだと思っている人は多い。
しかし科学において論理的な思考だけを採用しているのは数学と哲学くらいのものである。
こんな言葉がある。


「数学はバカでもできる学問だ」


これは別に数学者をバカにしているわけではない。むしろ数学者自身が好んでこの言葉を使うのである。これは数学の論理性を示している言葉なのだ。


「数学とは公理から出発し、論理さえ順番に積んでいけば必ず定理にたどり着けるものである。論理的にさえ考えればいいのだから、これほど楽な学問はない。まさにバカにでもできる学問だ。えっ?君はできないの?バカにでもできることができない君はバカ以下なのだね」


という数学者の自負と自慢がこの言葉の裏には隠れているのである。


それに比べて物理学や化学は自然現象を扱う。この学問では『論理的に正しいこと』と『現実に正しいこと』は同じではない。
論理的なだけではそれは単なる仮説でしかない。論理的に正しいことに価値はない。仮説は実験で検証されない限り信用してはいけないことになっている。物理学においては「説明できる」ことと「正しいこと」は区別されている。
そして物理的に正しいことは実験的に確かめられたことだけなのである。


そこで現在の素粒子物理学者が抱える悩ましい問題が生じる。
高エネルギー物理学の世界では、扱う現象や理論のエネルギーレベルがあまりにも高すぎるため、現在の技術では実験で検証することができない。
現在の人類が持ちうる最大のエネルギーは2005年度に稼動予定の陽子・陽子衝突型加速器LHCの持つ16TeVである。しかし超大統一理論を検証するためには1000万TeVという途方もないエネルギーが必要である。


だから素粒子物理学者は理論を作ってもそれを証明することができない。証明することもなく、ただ現象を説明する仮説を作ることしかできないのだ。


ヒッグス粒子、超対称性、Dブレーン。いずれもまだ実験では確認されてはいないにも関わらず、その論理の美しさや便利さから、それを信じている人は少なくない。
現在の素粒子物理学が数学的な論理に多く頼り、高度に数学化している原因もここにある。


数学や哲学は論理を重視し、物理や生物学などは実験と論理の相互が補完しあう関係にある。これがこの2つの『科学』の違いである。


ただし科学が論理と実験的事実だけでできていると思ってはいけない。
たとえばラマヌジャンというインド人の数学者がいる。
32歳で夭折した彼は数学の教育を受けた経験もなく、定理の証明もしなかったにも関わらず、次々と定理を生み出したのである。もちろんそれらの定理は全て正しいことが別の人物によって証明されている。
これはテストの問題も見ずに解答を書き、しかもそれが全て正解して100点を取ってしまうようなものだ。
彼は論理的な思考も証明もなしに、いきなり『思考の飛躍』とでも言うべき直感で正解にたどり着いてしまうのだ。彼の才能を見出したイギリス人数学者ハーディの仕事は、ラマヌジャンが求めた定理を証明することだったという。


これこそが天才というものなのだろう。論理的に考えるのは天才の仕事ではない。天才は生まれながらに世界の真理の正解集を持っているのである。
たとえばモーツァルトという天才は楽譜が初めから頭の中にあり、それを紙に書き起こすだけであったという。


ここまで極端でなくとも、科学の進歩には論理的思考を超えた直感の働きが常に介在している。前にも言ったが論理的思考とは効率が悪く、既存の枠組みを超える力のないものなのである。偉大な発見はいつも論理を超えてなされる。
(もちろん天才ではない私たちは論理的に考えるように勤めなくてはいけない。)


さてこの直感が重視されるのは歴史学においても同様である。
ところで歴史学超心理学の抱える問題の根は同じものである。


それは人間を扱うことである。


なぜなら人間というのは嘘をつく生き物だからだ。人間の残した記録も嘘の集まりである。
一方で自然ならば嘘はつかない。もし欺瞞が生じるとしたら、その欠陥は完全に観察者の責任である。


私は先ほど「イカサマも見抜けない『超心理学』は哀れな学問である」と言ったが、これは彼らが無能であると言っているわけではない。むしろ彼らは優秀な実験者である。
しかし自然科学者がその能力を最大限に発揮できるのは相手が嘘をつかない場合に限る。嘘をつかない自然を相手にしているのと同じ技術を超能力研究に持ち込んだのが彼らの失敗なのである。


一般には「ある超常現象を科学者が嘘だと見抜けなければ、その現象は本物である」と思う傾向がある。
しかしイカサマを見抜けるのはイカサマ師だけである。
何度も言うが科学者は嘘をつかない相手に対してしか、その能力を発揮できないのだ。だから超心理学の研究にはプロのマジシャンの協力は欠かせないものなのであり、自称超能力者の多くは手品師の前で能力を使うのを嫌がるのである。


歴史学や多くの人文系の科学も「人間」を扱う以上はこの『嘘つき』の困難から無縁ではない。
こう言うと「全ての人が嘘つきなわけがない。誠実で正直な人間が残した信頼できる記録はいくらでもある」と反論されるかもしれない。 もちろん私は他人を信用していないわけではない。しかし嘘とは意図的につくものだけではない。


人間の記憶は根本的に思い違いをするようにできている。
何かの記録を取ったことのある人ならば理解していただけるだろうが、記録は現実の出来事をそのまま書き起こしたものではありえない。
過去は頭の中で再現を繰り返しているうちに、少しずつ変容していく。より面白く語りやすい物語になってしまうのだ。これは必然的に起きてしまうものであり、嘘をつく意図のあるなしに関係がない。


ここに人間を扱う学問のもう一つの困難がある。それは再現性のなさである。自然ならば一つの現象は条件さえ整えればいつでも再現できる。もし誰かが嘘をついても、その嘘はすぐにばれる。それが再現できるかどうかを確かめさえすればよいのだ。自然科学にとって再現できないことは全て嘘なのだから。


しかし人間のすることに再現性はない。だからある記録を嘘か真か確かめることはできない。
物理学で言うところの実験による仮説の確認ができないのである。


たとえば南京虐殺の被害者数がよく問題になるが、これも正解が分かることは永遠にないだろう。南京に無数の市民と兵士を集めて「それではあの時と同じように殺したり、殺されたりして下さい」と言うわけにはいかない。
だから誰かが言っていた「歴史は科学ではなく物語だ」という説は大いにうなずけるものがある。
(うなずいているだけで、賛同しているわけではありませんので石を投げないで下さい。)


再現できないことなので実験はできず、証拠は不足しているので論理だけで結果にはたどりつけない。
それならば歴史学者たちはどうやってこの困難を乗り越えるのだろうか。
まず基本にあるのは過去の資料の蓄積と統計データの収集と回析である。
そして、その上で彼らは『芸術的直感』を用いる。
つまりは推論の積み重ねである。

たとえば芸術に正解はなく、ただ好きか嫌いかがあるだけである。芸術家は好き嫌いを直感で判断し、好きなものを愛でる。
同じように歴史学者は肌で記録の真偽を感じ、勘で記録の穴を埋め、正しい歴史を組みあげていくのである。感覚的な判断は信用できないと思う人もいるかもしれないが、天才はこの判断を間違えない。
そしてその人物が天才か否かは後世の歴史学者が地道で長期にわたる事実検証を行うことで判明するのである。正解は永遠に分からずとも、少しずつ事実を発見していくことで近似解は求まる。そういう意味で歴史学は科学である。


つまり歴史学は正解を積み上げていくのではなく、誰かの作った全体の鳥瞰図や樹形図をもとに、それを歴史学者が長い時間をかけて調査し、修正を施していく作業なのである。


このように一口で科学と言ってもその中身は千差万別である。だから時おり誰かが言う「科学的に考えろ」とか「科学する心」という言葉は実にあやふやな言葉なのである。


万能な科学(方法)は存在しない。科学には扱える問題と扱わない(扱えない)問題がある。
科学と一口にいっても、その種類は多種多様であり、適材適所に使い分けされている。


だから自分の知っている「科学的方法」だけが「科学的方法」の全てだと思い込むと、「歴史は科学ではない」だとか、「経済学は学問として不完全だ」という見当違いな発言をしてしまうことになるのである。