科学とは何か(2)経済学(旧玄文講再録)

以前、私がまだ学生だった頃、研究室の同僚と経済政策について話しているうちに、彼らは


「経済学なんてつまらないよね」


ノーベル経済学賞なんて要らないものだ」


なんて言い出したことがある。
そして挙げ句には


「世界で一番、純利益を多く出した経営者にノーベル経済学賞を与えればいいではないか」


などと言い出す始末だ。
こういうことを言う人は多い。
「経済学者は経済を学んでいるくせに商売ができない」
「経済学者の言う通りにして金持ちになった奴なんていない」
「そんなに言うなら自分で金をかせいでみたらどうなんだ」
経済学者はなにかと批難されることが多い。


なぜ経済学だけがこんな言い掛かりを受けなくてはいけないのだろうか。


車のエンジニアに向かって「そんなに車が好きならF1で優勝してみろ」と言う人はいないであろう。
医者に向かって「そんなに身体に詳しいなら病気になるな」と言う人はいないであろう。


市場や貨幣の仕組みについて分析するのと、市場で有利な立場になり金をかせぐのとでは必要とされる能力はまるで違う。
物理学者が物理的に強いわけではないのと同じように、経済学者が経済に強いわけではないのである。


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理系の人間には経済学を学問として認めようとしない人もいる。


「経済学は実験で検証できないのだから、科学ではありえない」


と言うわけだ。
それで「カオス」だとか「非線形」といった高級そうに見える数学を持ち出してきて、
「私が経済学を本物の科学にしてあげよう」
なんて言い出したりすのだ。迷惑な話である。


科学とは実験で検証できるものでないといけない。それは事実だ。
あらゆる仮説は検証されない限り、ただの大嘘でしかありえない。


しかし現実の経済活動はなかなか実験をさせてくれない。仮に経済学者が
「インフレが失業率に与える影響を知りたいので、大規模なインフレを起こして下さい」
なんて言っても「うん」と言ってくれる政府などありえない。


そして批判者は言うのである。
「経済現象は実験で再現し、検証することができない。よって経済学は学問ではない」


この発言には大きな誤解がある。
検証できなくては科学ではない。それは正しい。
しかし「再現できなければ、検証できない」というのは嘘である。


ここで進化学を考えてみよう。
進化学を科学ではないと言う人は、一部の偏執的な宗教家でもない限り、いないであろう。


しかし進化は実験で再現することはできない。
「教授、先日牧場で飼っていた恐竜がとうとう始祖鳥に進化しました」
なんてことはありえないのである。
(最近は分子生物学を利用することで実験も可能になっているが、やはり不可能なことは多い)


では何故に進化学は再現できないのにも関わらず、検証を可能とし、科学となりえているのか。
それは、生物には「歴史」があるからである。
世界中の地層の中には、生物の進化の歴史の痕跡を示す「化石」が眠っている。


生物が化石になるには多くの幸運が必要である。生物を分解してしまう微生物が入り込めない場所で、適切な圧力や乾燥を受けなくてはいけないからだ。
特に軟体動物が化石化するのは奇跡的な偶然を要し、初期の時代の生物の化石はほとんど見つかってはいない。


それでも生物学者たちはその幸運を掘り起こし、過去の歴史を検証することで、「進化」という仮説を検証し、それが正しいことを示しているのである。


経済学も同様だ。
確かに経済活動は実験室では再現できない。
しかし、人間には「歴史」がある。
戦争、恐慌、貿易、経営。人間の活動の中には経済活動の痕跡が無数に眠っている。


ケインズチャーチルの論争、第一次大戦後の世界不況は、金本位制の欠点と金融政策の必要性を立証した。
アメリカでは「失業率が下がり過ぎるとインフレ率が上昇して不況を招く」という経済学の仮説通りのことが起き、それは立証された。


「例外のない規則はない」という言葉通り、予想外の出来事がいくつも起き、そのたびに反経済学の一派は喜んで経済学を否定して、あんな連中よりも俺を信用しろと人々に訴えた。
だが経済学者はそのつど新しい仮説を作り上げて、それを歴史に検証させてきた。
最後に敗北するのはいつも反経済学の一派だ。

学問の流儀は多種多様であり、自分の知っているやり方だけが唯一の方法だと思ってはいけないのである。