法則の変わる科学、経済学(飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」)


第一部読了。
以下、そのまとめと感想を。


貨幣数量説は、物価と貨幣の流通量が比例することを予言する。
しかし近代に入ってそれが成立しなくなった。
人々が将来、物価が上がると信じれば本当に物価が上がり、下がると信じれば下がる。
それが現代の物価理論、「期待」が市場を動かす動的経済学の世界なのだという。


しかし、16世紀価格革命の時代、この経済学は存在しなかった。
まるで「期待」など存在しないかのように、物価は貨幣流通量と比例していた。
古典的な貨幣数量説が成立していたのだ。
経済学とは昔と今では法則が違っていたのである。


それは何故か。
昔はこの「期待」が現在とは違う形で機能していた。
貴金属に頼っていた頃のマネーサプライの増減は偶然任せだった。
金脈が発見されるか否か。それで市場に流れる貨幣の量も増減した。
偶然は予測できない。
将来、マネーサプライが上がるか下がるか分からない場合、人々の期待は「将来も現在と同じだろう」となる。
つまり「期待」がインフレ方向にもデフレ方向にも作用しないので、物価は純粋にマネーサプライだけで決められたのである。


だが、現在マネーサプライは偶然の産物ではない。
各国の中央銀行が増やすか減らすかを決めている。そうなれば私たちも今後の動向を「期待」できる。
マネーサプライを操る確固とした意志の存在が、金脈頼りの前世紀との最大の違いである。
人間の意志が、経済を動かすのである。だからこそ「意志」の責任は重大である。


たとえばアメリカはインフレ目標を導入しているので、将来物価が上がると「期待」される。
そうなればアメリカ人は貨幣の価値が下がる前に消費活動を行い、アメリカ国内の需要を盛り上げるだろう。


逆に日本は事実上のデフレ目標を導入しているとしか言えない現状なので、将来物価が下がると「期待」される。
ならば今はお金を無理に使う必要はない。こうして誰もが消費活動を抑えることで国内の需要はなくなる一方である。
日本国内にしか市場を見出せない産業、建築業、飲食業、印刷業等々は今後も長い苦しみを味わうことだろう。