戦後日本経済史」という本を読んだ。
金融政策の重要性を無視した内容の本で、その主張にはとても同意できそうにない。


著者は現在の不況の原因を1940年体制という戦時中から続く日本の経済構造にあると主張する。
だが読んでいても次から次へと小話が紹介されるだけで、著者の仮説の証明をしている箇所が見つからず困惑させられた。


著者の名前を見て納得した。野口悠紀雄氏であった。
構造改革イデオロギーの伝道師のような人物だ。


そもそも景気対策の中心は金融政策にある。
財政政策やミクロ経済での改善だけでは景気回復は困難である。
これは経済についての議論の前提としてふまえておくべきことだ。
しかし、どうも論争の場で優勢なのは構造改革イデオロギーのようだ。


現在の日本ではインフレ期待を起こすことにより景気回復をすべきという少数のリフレ派と、構造改革こそ景気回復の道だとする多くの人々とよく議論になる。


自明のことながら、リフレ政策が絶対に正しいものであるわけはない。
だからこそ代案を提示し、リフレ政策とぶつけて議論することには意味がある。
どのような金融政策を行うべきかは大いに論じるべきものだ。
だからといって絶対に間違っている構造改革イデオロギーぶつけるのは時間の無駄である。
日本に無益な議論をしている時間的余裕はない。
国内の需要は停滞を続け、頼みの綱だった海外の需要が落ち込みつつある。
今もひどいが、さらにひどくなりそうな気配がする。


だから私は前提が認められた上で成される生産的な議論ができる国に嫉妬してしまう。
たとえば高名なステイグリッツ教授はリフレ政策には懐疑的だが、金融政策の重要性を疑ってはいない。

中央銀行は政府からの独立を保ち、物価の安定だけに傾注すべきだという主張は「経済改革」というスローガンの中核になっている。
しかし根拠のない断定は、それが中央銀行によるものでも、調査や分析の代わりにはなりえない。


ひたすら物価の安定を追求したのでは、かえって人びとの経済的幸福を損なうことになる。
(ステイグリッツ教授の経済教室「中央銀行の役割についての大嘘」より引用)

なすべき議論は「金融政策A VS 金融政策B」であり「金融政策と構造改革のどちらを優先すべきか」ではないはずだ。


日本での議論は「前提」から出発するのではなく、前提を大多数の反対派に認めさせるところから始めないといけないのだ。


時間を浪費し、隣人たちが不幸になっていくのを見るのは辛い。
その原因を知っていて何もできないのは虚しい。
自分が苦しい理由も分からないまま苦しんでいる人は悲しい。