米原万里「真夜中の太陽」

「責難は成事にあらず(@十二国記)」
これは、批判しただけで何かをした気になってはいけないということだ。


米原万里さんが亡くなったのは一昨年のことだ。
チェコスロバキアで子供時代を過ごし激動する共産主義国を生きた女性で、
成人してからはロシア語の同時通訳者となり、自身の体験を元にしたすぐれた随筆を書く作家でもあった。


だが今回読んだ米原さんのエッセイ「真夜中の太陽」はひどいものだった。
そこにあるのはダメな社会批評の見本のような文章の数々だった。


世間の耳目を集めている社会問題に眉をひそめてみせてから、
強引な展開で自説に結びつけて国や大企業を批判して、
さも道理の分かった振りをする。
だけどその持論は、詳しく調べて結論づけたものではないので、現実にそぐわない的外れな批評ばかりになる。


尊敬できる人物である米原万里さんの文章がそんなものばかりだったので、
私はがっかりしてしまった。


まず一つ実例を挙げよう。

日本政府・日銀は、進んで「免震構造」を取っ払ってしまった。
地震の話の後に唐突に以下の話題に転じている。この無関係な話をつなぐ強引さはダメな社会批評によくあるパターンだ。)
アメリカの見せかけの株高維持のために唯々諾々とゼロ金利政策を押しつけられ、本来、日本の庶民の年金や社会福祉を潤すはずの大量の資金(九年間で三十兆円もの利子所得)が、アメリカに流れる仕組みを作ってしまったのだ。

非難をするだけなら簡単だ。
なんの努力も知識も要らない。
国家や大企業やマスコミを批判して
とりあえずダメだ、ダメだと言っていれば格好がついてしまう。


だが「責難は成事にあらず」だ。
彼らがダメならば、どうしたらいいのか。
彼らのやり方以外の選択肢があるのか。
それに答えなくては建設的な意見とは言えない。
相手に反対すれば、ただちに自分が正しくなるわけではないのだ。


金利0%がけしからん、と言うのは簡単だ。
だが本当に金利0%をやめてしまえば、日本はデフレで更なる失業率の増加をもたらす。
そうなれば不景気が長引く一方だ。
米原さんは金利0%に代わる案を提案できるのだろうか?
いや、提案できなくてもいい。
金利0%を本当に解除したらどうなるのか少しでも考えたり調べたりしたのだろうか?


米原さんは国を非難して自分が庶民の味方になったつもりで満足してしまっている。
「責難」することの快感に酔うだけで、本当の問題解決方法なんて想像もしていないのだ。
アメリカの横暴と日本政府の弱腰とそれにより苦しむ庶民。
それを非難するのはさぞ気持ちのいいことだろう。


だが現実はそんな陰謀論的にできてはいない。
金利を低く抑えるのはデフレを止めるために必要であり、
アメリカが日本にそれを要求するのは、それが経済学的に正しい行為だからだ。
もちろん、それはアメリカを利するし、日本にとっても必要なことだ。
どこにも弱者を犠牲にする陰謀は存在しない。
米原さんは非難するのに都合の良い幻想しか見ていないのだ。


他も米原さんの文章は一事が万事この調子だ。


養殖魚は畸形だらけだから食べない方がいいという怪しい話を紹介した挙げ句、
ホルモンや薬物に頼った食料製品の工業化を非難する。


養殖に頼る社会に「自然からの警告」と賢しげなことを言うのは簡単だ。
だが養殖による大量生産を抜きに現在の食料需要がまかなえるだろうか?


食中毒騒動で廃棄される食べ物を見て、命の尊厳が食料の製品化により忘れられていると非難する。


消費される全食肉のごく一部を捨てることで食中毒の危険が回避されることと、倫理観のために食品衛生を無視することのどちらか重要なのだろうか?


人間はコンピューターのデータベースに頼りすぎて、自分で記憶することの重要性を忘れてしまったと非難する。


ではこの大量の情報が溢れる世界をコンピューターのデータベースに頼らずに処理できるのだろうか?


景気回復のためにリストラされて失業者が出るのはけしからん。
企業が生き残っても国民は幸せになれないと非難する。


では企業は赤字を抱えて社員と心中しないといけないのだろうか?
非難すべきはリストラを行っている企業ではなく、社会の流動性を妨げる不景気と
それをもたらした金融政策の失敗であるはずだ。


麒麟も老いては駄馬になる。
そんな言葉が思い浮かんだ。