与那原恵「自殺志願者という物語」☆

もろびとこぞりて―思いの場を歩く

もろびとこぞりて―思いの場を歩く

1998年のことである。ドクターキリコ事件というものがあった。


ネットにおいて自殺志願者が交流する掲示板の常連男性、ハンドルネーム「ドクターキリコ」が七名に青酸カリを販売。
そのうちの一名の女性が実際にその青酸カリを用いて自殺した。その後、それを知ったドクターキリコなる人物も自殺する。
耳目をひく事件であり、当時は大いに騒がれた。


やがてドクターキリコの知人であり、掲示板の管理人でもあったハンドルネーム「美智子」なる新しい人物がメディアに登場し、ドクターキリコを擁護した。
彼女によると青酸カリはお守りであり、彼は自殺志願者の悩みに真摯に応える誠実な人物であったそうだ。


与那原恵さんの「もろびとこぞりて」内には、その青酸カプセルを購入した人物3名にインタビューした記事がのっている。
そのうちの一人である「女性A」への与那さんの視点はかなり批判的で意地悪で楽しいものだ。


簡単に言えばAはよくいるタイプの自分大好き人間、個性原理主義者なのである。


与那さんの彼女への評価は

Aが気にしているのは自分だけだ。
この社会の中で確かな手応えを見出せない自分を気にしているのだ。
そして彼女は、自分という個性を「自殺志願者」のネットのなかで見い出したのだ。
他人に興味を持つような人物ではない。


というものである。
そもそも自分に個性を求めたがる人間にろくな者はいない。より嫌味に言えば、個性を求める人間に個性的な者はまずいない。
いるのは個性的になろうとして失敗した、不思議ちゃんやただのうるさくてウザイ奴ばかりである。


インタビューの場においてAは饒舌に自分について語る。
暴力的な父親と無抵抗な母親という「平凡」な家庭環境について。
進学をめぐるいざこざ。
覚醒剤遍歴。恋人との別れ。うつになったこと。例のサイトを知ったこと。


彼女にとって重要なのは自殺することではなく、「自殺したいという「あたし」を語ること」である。
Aにとって「自殺志願者」はようやく手に入れた個性的な自分の肩書きである。
そして個性的な自分を他人に知らしめるのは心底楽しいのだ。念願かなって幸せなのである。


自殺した例の女性に対しての哀れみは一切なく「彼女のせいであたしたちの共同体が壊れてしまった。迷惑だ」と怒る始末である。


そんなAに他人への想像力はまったくない。Aは「他人があたしをどう見ているのか、すごく気になっている」と言っているにも関わらず、実際には他人の目を気にしない恥知らずなのである。
なぜなら他人の目は他人に関心をもつことで初めて理解できるものだからだ。自分にしか興味がないAにできる芸当ではない。
他人の目ばかり気にして臆病になるのも問題だが、ようは程度問題である。度を超した自己中心的な態度はこちらをウンザリさせる。


恋人と別れるとき「(ドラッグにはまる)お前を変えられなかった」と言われて、Aは彼のことを「ありのままの自分」を愛さないエゴイストだと怒る。
与那さんは「ありのままの自分」幻想は「自分はなにも悪くない」というつぶやきに正当性を持たせているだけだ、とにべもない。


マスコミは何も分かっていないと怒り、命が大事だという世間の価値観を「バカみたい」「マインドコントロールされている」と言って徹底的に軽蔑する。
自分が何を信じるかは彼女の勝手だが、他人の常識も尊重するのが思いやりというものである。
ましてや自分と異なる価値観をバカにすることで、自分が他人より優位な存在になったと錯覚するのは論外である。


オウム真理教については「ハマれるものがあってうらやましい」と言い、
「生きているなんて自然現象だ。生んで欲しいなんて頼んだわけじゃないから死ぬくらい自由にさせろ」と言う。
死ぬのは勝手だし、青臭いセリフも微笑ましいが、ファッションとして「自殺志願者」を楽しんでいる人間が「自由に死なせろ」とは笑止である。


与那さんは、よりによって、そこに名著「利己的な遺伝子」の影響を感じている。私も同感だ。
しかし、たしかに生物の目的は自己の遺伝子をより多く残す自己中心的なものである。しかしそれは単なる「自然」に過ぎない。
Aはよくある「自然」と「道徳」の混同という誤りを犯しているに過ぎない。自然法則から道徳規則を導き出すのが完全な誤解なのである。


さらに「あたし、精神科で調べてもらったらIQがすごく高いんです。自殺志願者って頭がよすぎるのかもしれない」


というセリフにいたってはバカの烙印を押される資格十分である。
ちなみに彼女は、おなじみの「自称・アダルトチルドレン」である。
「自殺志願者」も「アダルトチルドレン」も手っ取り早く個性的な人間になるためには便利な言葉である。


そして何よりもこれだけ個性的を目指しているにも関わらず、Aは単なる「美智子」の姿を映す鏡に過ぎない。
Aの言葉、思想は全て「美智子」のコピーである。


だが「美智子」はAとは違い簡単に馬脚を表わしたりはしない。
彼女は自分に有利な場所でしか自分を語らないからだ。そこが場所さえ与えられれば、どこででも、誰にでも、嬉々として自分語りを始めるAとは格の違うところだ。


しかし「美智子」のサイトにあるアンケートの自殺したい場所の選択項目に「インド、雪山、樹海」があったり、「世間の人が意味がある、素晴らしいと考えている事象にまったく意味を感じることができません」と嘆いて、よくある何でもないことをやたら深刻ぶってみせるなど、少しはボロを出している。


また彼女の監修した本における、彼女が自殺しようと向かった富士の樹海でさまよいながら、高野悦子の詩を口ずさむくだりは自己陶酔が過剰である。


与那さんは最後に「美智子」の言う「お守りとしての青酸カリ」を次のように解釈している。


「死なないためのお守り」とは、他人に対して優位に立てれば生きていられるという傲慢さを担保するためのアイテム以外のなにものでもない


(補足)


私は以前にも「自然」と「道徳」を混同する誤りについて指摘した。
この手の誤りには両極端な2つのパターンがある。


1つは「ある行為Aは自然現象である。だからあらゆるAは正当化される」という、それは自然現象だから道徳的に正しいものだと結論付ける論理である。


そしてもう1つは「ある行為Aは自然現象に過ぎない。だからあらゆるAは尊重する必要はない」という上と正反対の主張だ。
それは自然現象だから私たちの意志とは無関係であるという論理だ。


いずれも自然を基準にして道徳を考えている点で間違っている。
それが自然であることは、それが社会的に正しいか悪いかの判断材料には一切ならない。


生きているのは自然現象だ。その通りである。
しかしその事実からいかなる社会規範「生きているのは素晴らしい」も「死ぬのは自由だ」も導くことはできない。
道徳は人間同士の約束事である。その是非を決めるのも人間であって、自然ではない。


確かに自然法則は私たちの社会行動に強い影響を与えており、私たちの道徳は自然の影響を受けている。
人間性を無視した規律が破綻するしかない以上は、私たちの道徳が自然とは完全に独立していると考えるのは無理がある。


しかし「影響を受けていること」と「その是非を決める」ことは別である。


自然は自分の子どもを可愛がるように私たちを動かす。そして人間の道徳はそれを「是」と決めている。


自然は他人を殺して自分の生存圏を広げるように私たちを動かす。しかし人間の道徳はそれを「否」と決めている。
(そして虐殺を求める人間性を無視せず、同時に虐殺をしないという道徳を満たすためには、そもそもの虐殺の動機を知ればよい。それは生存圏の確保だ。つまり人間が経済や科学技術を発展させ、生存圏を奪わずとも確保できる状態を維持すれば虐殺は起こらなくなる)


自然が人間を無視して法則を決めているように、私たちは影響を受けていようが何だろうが自然を無視して道徳を決めることができる。
むしろ道徳を守るために自然からの影響をコントロールすることさえできる。


自然うんぬんを持ち出して、あるべき道徳を語り、自分の人生観を正当化するのはごまかしでしかないのである。


(雑感)


先日知人から「ネットにおいて、長い文章はまともに読まれない」と指摘された。
そればらば私の文章はまだ十分に短いので大丈夫であろう。