与那原恵「自殺志願者という物語」☆

もろびとこぞりて―思いの場を歩く

もろびとこぞりて―思いの場を歩く

1998年のことである。ドクターキリコ事件というものがあった。


ネットにおいて自殺志願者が交流する掲示板の常連男性、ハンドルネーム「ドクターキリコ」が七名に青酸カリを販売。
そのうちの一名の女性が実際にその青酸カリを用いて自殺した。その後、それを知ったドクターキリコなる人物も自殺する。
耳目をひく事件であり、当時は大いに騒がれた。


やがてドクターキリコの知人であり、掲示板の管理人でもあったハンドルネーム「美智子」なる新しい人物がメディアに登場し、ドクターキリコを擁護した。
彼女によると青酸カリはお守りであり、彼は自殺志願者の悩みに真摯に応える誠実な人物であったそうだ。


与那原恵さんの「もろびとこぞりて」内には、その青酸カプセルを購入した人物3名にインタビューした記事がのっている。
そのうちの一人である「女性A」への与那さんの視点はかなり批判的で意地悪で楽しいものだ。


簡単に言えばAはよくいるタイプの自分大好き人間、個性原理主義者なのである。


与那さんの彼女への評価は

Aが気にしているのは自分だけだ。
この社会の中で確かな手応えを見出せない自分を気にしているのだ。
そして彼女は、自分という個性を「自殺志願者」のネットのなかで見い出したのだ。
他人に興味を持つような人物ではない。


というものである。
そもそも自分に個性を求めたがる人間にろくな者はいない。より嫌味に言えば、個性を求める人間に個性的な者はまずいない。
いるのは個性的になろうとして失敗した、不思議ちゃんやただのうるさくてウザイ奴ばかりである。


インタビューの場においてAは饒舌に自分について語る。
暴力的な父親と無抵抗な母親という「平凡」な家庭環境について。
進学をめぐるいざこざ。
覚醒剤遍歴。恋人との別れ。うつになったこと。例のサイトを知ったこと。


彼女にとって重要なのは自殺することではなく、「自殺したいという「あたし」を語ること」である。
Aにとって「自殺志願者」はようやく手に入れた個性的な自分の肩書きである。
そして個性的な自分を他人に知らしめるのは心底楽しいのだ。念願かなって幸せなのである。


自殺した例の女性に対しての哀れみは一切なく「彼女のせいであたしたちの共同体が壊れてしまった。迷惑だ」と怒る始末である。


そんなAに他人への想像力はまったくない。Aは「他人があたしをどう見ているのか、すごく気になっている」と言っているにも関わらず、実際には他人の目を気にしない恥知らずなのである。
なぜなら他人の目は他人に関心をもつことで初めて理解できるものだからだ。自分にしか興味がないAにできる芸当ではない。
他人の目ばかり気にして臆病になるのも問題だが、ようは程度問題である。度を超した自己中心的な態度はこちらをウンザリさせる。


恋人と別れるとき「(ドラッグにはまる)お前を変えられなかった」と言われて、Aは彼のことを「ありのままの自分」を愛さないエゴイストだと怒る。
与那さんは「ありのままの自分」幻想は「自分はなにも悪くない」というつぶやきに正当性を持たせているだけだ、とにべもない。


マスコミは何も分かっていないと怒り、命が大事だという世間の価値観を「バカみたい」「マインドコントロールされている」と言って徹底的に軽蔑する。
自分が何を信じるかは彼女の勝手だが、他人の常識も尊重するのが思いやりというものである。
ましてや自分と異なる価値観をバカにすることで、自分が他人より優位な存在になったと錯覚するのは論外である。


オウム真理教については「ハマれるものがあってうらやましい」と言い、
「生きているなんて自然現象だ。生んで欲しいなんて頼んだわけじゃないから死ぬくらい自由にさせろ」と言う。
死ぬのは勝手だし、青臭いセリフも微笑ましいが、ファッションとして「自殺志願者」を楽しんでいる人間が「自由に死なせろ」とは笑止である。


与那さんは、よりによって、そこに名著「利己的な遺伝子」の影響を感じている。私も同感だ。
しかし、たしかに生物の目的は自己の遺伝子をより多く残す自己中心的なものである。しかしそれは単なる「自然」に過ぎない。
Aはよくある「自然」と「道徳」の混同という誤りを犯しているに過ぎない。自然法則から道徳規則を導き出すのが完全な誤解なのである。


さらに「あたし、精神科で調べてもらったらIQがすごく高いんです。自殺志願者って頭がよすぎるのかもしれない」


というセリフにいたってはバカの烙印を押される資格十分である。
ちなみに彼女は、おなじみの「自称・アダルトチルドレン」である。
「自殺志願者」も「アダルトチルドレン」も手っ取り早く個性的な人間になるためには便利な言葉である。


そして何よりもこれだけ個性的を目指しているにも関わらず、Aは単なる「美智子」の姿を映す鏡に過ぎない。
Aの言葉、思想は全て「美智子」のコピーである。


だが「美智子」はAとは違い簡単に馬脚を表わしたりはしない。
彼女は自分に有利な場所でしか自分を語らないからだ。そこが場所さえ与えられれば、どこででも、誰にでも、嬉々として自分語りを始めるAとは格の違うところだ。


しかし「美智子」のサイトにあるアンケートの自殺したい場所の選択項目に「インド、雪山、樹海」があったり、「世間の人が意味がある、素晴らしいと考えている事象にまったく意味を感じることができません」と嘆いて、よくある何でもないことをやたら深刻ぶってみせるなど、少しはボロを出している。


また彼女の監修した本における、彼女が自殺しようと向かった富士の樹海でさまよいながら、高野悦子の詩を口ずさむくだりは自己陶酔が過剰である。


与那さんは最後に「美智子」の言う「お守りとしての青酸カリ」を次のように解釈している。


「死なないためのお守り」とは、他人に対して優位に立てれば生きていられるという傲慢さを担保するためのアイテム以外のなにものでもない


(補足)


私は以前にも「自然」と「道徳」を混同する誤りについて指摘した。
この手の誤りには両極端な2つのパターンがある。


1つは「ある行為Aは自然現象である。だからあらゆるAは正当化される」という、それは自然現象だから道徳的に正しいものだと結論付ける論理である。


そしてもう1つは「ある行為Aは自然現象に過ぎない。だからあらゆるAは尊重する必要はない」という上と正反対の主張だ。
それは自然現象だから私たちの意志とは無関係であるという論理だ。


いずれも自然を基準にして道徳を考えている点で間違っている。
それが自然であることは、それが社会的に正しいか悪いかの判断材料には一切ならない。


生きているのは自然現象だ。その通りである。
しかしその事実からいかなる社会規範「生きているのは素晴らしい」も「死ぬのは自由だ」も導くことはできない。
道徳は人間同士の約束事である。その是非を決めるのも人間であって、自然ではない。


確かに自然法則は私たちの社会行動に強い影響を与えており、私たちの道徳は自然の影響を受けている。
人間性を無視した規律が破綻するしかない以上は、私たちの道徳が自然とは完全に独立していると考えるのは無理がある。


しかし「影響を受けていること」と「その是非を決める」ことは別である。


自然は自分の子どもを可愛がるように私たちを動かす。そして人間の道徳はそれを「是」と決めている。


自然は他人を殺して自分の生存圏を広げるように私たちを動かす。しかし人間の道徳はそれを「否」と決めている。
(そして虐殺を求める人間性を無視せず、同時に虐殺をしないという道徳を満たすためには、そもそもの虐殺の動機を知ればよい。それは生存圏の確保だ。つまり人間が経済や科学技術を発展させ、生存圏を奪わずとも確保できる状態を維持すれば虐殺は起こらなくなる)


自然が人間を無視して法則を決めているように、私たちは影響を受けていようが何だろうが自然を無視して道徳を決めることができる。
むしろ道徳を守るために自然からの影響をコントロールすることさえできる。


自然うんぬんを持ち出して、あるべき道徳を語り、自分の人生観を正当化するのはごまかしでしかないのである。


(雑感)


先日知人から「ネットにおいて、長い文章はまともに読まれない」と指摘された。
そればらば私の文章はまだ十分に短いので大丈夫であろう。

冲方 丁 「マルドゥック・スクランブル 」(全3巻)☆☆☆☆

マルドゥック・スクランブルは私が勝手にギャンブルSFと呼んでいる作品である。
カイジとかが好きな人ならば間違いなく夢中になれるSFだ。


この物語の主人公である少女バロットは男から物のように扱われ続け、生きるのに疲れてしまった少女売春婦である。


物語冒頭でバロットはある目的のために雇い主シェルによって体を焼かれてしまう。
しかし彼女は瀕死の重傷を負いながらも二人の事件屋によって救われる。


そして彼らは政府にマルドゥック・スクランブル09の発令を要請した。それは先の大戦で使用され、あまりにも甚大な被害をもたらしたために禁忌として封印された科学技術を特別な目的のために制限付で使用を許可する制度である。
こうして彼女はシェルの犯罪を暴く証人として保護されることになる。


全身に重度3の火傷を負っていたバロットは人工皮膚を移植され、天才的な適応能力を発揮する。
彼女は周囲の空間を皮膚感覚で鋭敏に知覚し、弾丸を弾丸で叩き落すことができるほどの精密な空間把握能力と金属製の皮膚を媒介としてあらゆる電子機器を遠隔操作する能力を得る。


そして彼女を救った事件屋の一人であり彼女のパートナーでもあるウフコックは禁忌そのものである大戦の兵器「知恵を持ったネズミ」である。
彼は匂いで人間の感情を読み、別の次元とリンクすることで自分の体を瞬間的にあらゆる兵器、道具に変化させることができる。
少女はその紳士的なネズミを信頼し、好きになる。


一方、彼らの敵も禁忌技術を使用して証人バロットの暗殺を謀る。
重力制御、電磁ナイフ、空中要塞、人語を話す動物、高度な生体移植技術などの様々な仕掛けが登場する。
まさにSFである。
そして彼らはこの能力を駆使してギャンブルをすることになるのである。
バロットと宿敵との攻防戦の最大の見せ場は、4枚の100万ドルチップをめぐるカジノでのギャンブルだ。


そう、彼らはこの超ハイテクノロジーを駆使して、よりによって博打を、しかもルーレットやブラックジャックという原始的な賭け事をするのである。


普通SFといったら科学と科学、超技術と超技術がぶつかりあう戦闘を繰り広げるものだと思うであろう。
もちろん、この本にはそういう戦闘シーンもある。一級の戦闘シーンだ。


しかしこの本を誉める人は戦闘シーンではなく、カジノでのギャンブルを超一級のSFとして賛美するのである。

なぜギャンブルがSFになるのであろうか?
ピーター・バンスタインは「リスク」という本の序文でこう語っている。

何千年もの歴史と今日われわれが生きている現代とを区別するものは何だろうか。
その答えは科学や技術、資本主義、あるいは民主主義の進歩を超えたところにある。

現在と過去との一線を画す画期的なアイデアはリスクの考え方に求められる。

リスクをどのように理解し、またどのように計測し、その結果をどのように重みづけるかを示すことによって、彼らはリスクを許容するという行為を社会を動かす基本的な行為に変えていった。

ギャンブルとはリスク管理の最たるものである。
そもそも偶然を理解し、それを支配することは科学の目的の一つである。


また「偶然」と「でたらめ」は同じ意味ではない。
偶然には規則性がある。だからこそ「確率」「統計」「複雑系」といった学問が生まれたのである。


たとえば量子力学不確定性原理により予測から偶然性を排除することはできないが、波動の確率分布という必然性により統計確率的な因果関係は成立している。
時々オカルティストが量子論を持ち出して「物理学は予言能力を失った。この世に決められた運命なんて存在しない」と言うが、運命という因果律はいまだに健在なのである。
(ただしミクロなレベルでは時間や空間を我々の見知っている時空と同じものだと考えない方がいいので、因果関係という言葉を安易に使うべきではない。)


ただ昔は科学が進歩すれば人は全ての因果律を厳密に知ることができると思っていた。驚異的な演算能力を持ったラプラスの悪魔は全ての未来を予言することができると期待されていたのだ。


それが今ではどれだけ科学が進歩しても、予測から「偶然」による不確定を避ける方法を持つのは不可能だと思われている。
誰も未来を予言することはできない。ただ「必然的に起こる偶然」だけならば予言できるのである。


そして「必然的に起こる偶然」とはリスクのことであり、そのリスクを管理し、制御する手段こそが科学技術である。


つまり科学技術とギャンブルとは双子の姉妹のようなものであり、SFとギャンブルは相性が良いのである。
SFがギャンブルをしないで、一体誰がギャンブルをすると言うのであろうか。


彼らの最大の勝負はブラックジャックで行われる。
ブラックジャックでの勝利とは勝ち続けることではなく、負けるのに耐え続けることで得られる。
超ハイテクノロジーを駆使しても確率の法則から逃げ出すことはできず、バロットたちは「負け」を避けることができない。
しかし彼女らの超ハイテクノロジーはリスクを管理し、「必然的な偶然」を「必然」にするために使われる。


手袋に変形したウフコックは膨大な量の統計データを管理し、ディーラーの感情を読み、それをバロットに伝える。
バロットはその鋭敏な感覚でカードの動きを完全に把握し、賭け金の額をリスクに合わせて調整する。
確率が「勝ち>負け」の時に大金を投じ、「勝ち>>負け」の時に超大金を投じる。偶然を確実に管理し続けることで利益は増え続ける。
そして所持金2千ドルは あっという間に100万ドルまでふくれあがる。だがそのときバロットたちの前にもう一人の「必然的な偶然」を操る男アシュレイが立ちふさがる。


もちろんこのギャンブルSFはギャンブルだけではなく、アクションもあり、ロマンスもあり、ハードボイルドもある。
またこのSFのテーマである「人間とは価値を見つけることができる獣である」は、私が最近考えている「自然は道徳でないからこそ、人間は道徳を発明した」という考えと同じものであり、とても共感できた。


間違いなく傑作。文字の読めるギャンブル好きは是非とも読むべし!


ちなみにSFファンの人は私が薦めるまでもなく既に読んでいる、もしくは読まれるでしょうから、わざわざ薦めたりは致しません。

高安秀樹 「経済物理学の発見」

高安秀樹氏「経済物理学の発見」という本を買った。


私は理論物理学を勉強しており、数年前まで繰り込み群や格子ゲージ理論相転移とからめた研究に取り組んでいた。
(その後私は自分の能力に限界を感じ、実家から戻ってくるように頼まれたこともあり研究室を辞めて家業を継ぎ、その家業が廃業して派遣社員になるわけである。思えばあの頃からいろいろあったものである)
それで、この本を書店でパラパラとめくってみたところ、その繰り込みだとか相転移の数学手法を経済学に応用していると言うではないか。
これは面白そうだ、と思いさっそく購入。


そして研究室に帰って前書きを読んでみると


これまで経済学を支えてきた理論のかなりの部分が実証的な根拠のない空論だったことが明らかになってきています。

経済学が科学になりきれないのは、観測事実を最優先して素直にあるがままを認めるような体質が欠けているからだと思います。


困ったことに「反経済学」の本であった。
経済学は実証科学ではない?


アメリカの失業率とインフレ率の相関関係の実証データは?
高橋是清のインフレ政策は?
世界恐慌における金融政策の有効性の証明は?
ペストによる人口減少がもたらした現象を経済学で説明できていることは?
16世紀ヨーロッパの価格革命は?
開国したあとの日本経済が急速に上昇したことは比較優位の有効性を立証したことになるのでは?


どこをどう見れば、経済学が「実証的な根拠のない空論」で「観測事実を最優先して素直にあるがままを認めるような体質が欠けている」学問になるのだろうか。


確かに経済現象の複雑さゆえに、経済学は厳密な予言能力を持たないでいる。
経済学の言うような理想的な均衡状態なんて実現はしない。(それは物理学だって同じことではあるが。)
様々な理論や仮説は、一長一短を持っており、現実の大まかな近似理論でしかない。


しかし経済学は現実に起きている現象の因果関係を定性的に説明できている。
定量的な研究だって、マクロ動学や計量経済学で取り組まれている。


学問ではないだなんて言いがかりである。


******************


また後半には、明らかな誤りもある。

外貨預金が自由にできる環境下でのインフレ誘導政策は円の暴落を引き起こす可能性が大きく、あまりに危険である。


インフレ政策を肯定する人の主張のひとつは、インフレが起これば国が抱える借金が事実上目減りするので、借金を容易に返すことができる、という安易な考え方です。


確かに、第一次大戦後のドイツのように、国家に天文学的な額の借金があっても、それを上回るインフレが起これば、借金はないに等しいものになります。


しかし、それは同時に、まじめに生きてコツコツと富を蓄えてきた人の人生を台無しにしてしまうものでした。
通貨価値が下落するということは、誠実に生きてきた人を裏切ることになるのです。


失業率の低下と富の再分配、ローンに苦しむ一般家庭の負担軽減、保健や年金財務の改善というインフレの利点を無視し、インフレ=ハイパーインフレと決めつけて不安感をあおり、インフレがキリギリスだけが得をする不誠実な政策だと吹聴する。
定番の「安易」な陰謀論である。


「浪費して借金した者が助かり、こつこつ貯蓄してきた人間が損をするのは、けしからん!インフレは国家の陰謀だ!不誠実な行為だ!」というわけである。
木村剛氏(この人もマクロ経済学の知識がなく、「徒然の数学なる日々」さんに批判されている。)などのインフレに反対する人が、よく言うことである。

しかし、これは道徳の乱用である。
政策の有効性の是非に道徳を持ちこむとろくなことがない。
道徳的に正しいか否かという議論は、一見正しそうに思えて、しかし現実への有効性を無視しているからだ。
また自分と反対の意見を持つ人を不道徳な人と決めつけることで、一方的な勝利を得ようとする「不誠実」な行為である。


そして氏はハイパーインフレが起こるという)最悪のシナリオを止める手段をいろいろと考えているのですが、これぞという名案が思い付きません。と言うのである。


それならば氏は経済学の本でも読むといいであろう。
「名案を思いついている人」がゴロゴロといるはずだ。


氏はインフレ政策が必ずハイパーインフレを起こすと考えているようだが、金融政策を通じてインフレのコントロールは可能である。
金融政策にはきちんとアクセルとブレーキが存在する。
車が止まらないのが恐いと言ってアクセルをふまないドライバーがいるだろうか?


コントロールに失敗する可能性もあるが、だからこそ有能なエリート様を日銀総裁や金融政策担当者にしているのである。
もし、そんな彼らが「ハイパーインフレが恐いから何もしません」などと言うのならば、それは仕事の放棄である。


F1レーサーが「スピードが恐いのでアクセルを踏みません」と言ったのならば、私たちは「お前の仕事は何だ?そのスピードを巧みな運転技術で制御するのが、あんたらの仕事だろう」と突っ込むことであろう。
義務を果たせないエリートならば辞めてしまえばいいのである。


また日本でハイパーインフレが起きる原因について氏はこう言うのである。

近年、外貨預金が簡単にできるようになり、年々その総額が増加しています。


仮に円がインフレを起こし出して、円の価値が下がってくると、外貨預金が見直されます。


例えば、1ヶ月の間にレートが1ドル=110円ぐらいなのが、1ドル=200円くらいになると、マスコミは円で持っているのは損だということをこぞって報道し、外貨預金を勧めるでしょう。


そして、実際にそのとおりに円売りが進み円の価値が下落すると、ますますこの傾向は加速され、結局早いもの勝ちで円を売るようになる心配があります。
それこそハイパーインフレーションの集団心理です。


キャピタル・フライト(資本逃避)!
キャピタル・フライト(資本逃避)!
キャピタル・フライト(資本逃避)!


またもや定番の間違いである。円が流出するのは、どのような場合であろうか。
それは「円で外貨を買う収益率」と「円を保有することでの収益率」を比較すればいい。


円で外貨を買う収益率 = 外貨の利子率 + 為替レート変化期待率 − 外貨のインフレ率


円を保有することでの収益率 = 円の利子率 − 円のインフレ率


どちらの収益率が高いかで、どちらの通貨を保有すべきかが決まる。


確かに過去のような固定相場制では2項目の「為替レート変化期待率」が存在しないので、円がインフレを起こせば起こすほど外貨を買う方が確実に得になる。
そして円を持っているのは不利なだけなので、激しい円売り、円安が起きる。


この場合、アルゼンチンで起きたような、自国通貨の暴落、ハイパーインフレも起こりうる。


円の通貨切り下げが予測される。将来、確実に円安、ドル高になる。


→ 切り下げやインフレが起きる前ならば、日本政府は実質より安い値段でドルを売っていることになる。


→ 円売り、ドル買い


→ 円暴落


しかし現在のような変動相場制では、「為替レート変化期待率」を投資家が警戒する、つまり外貨や円の価値が細かい調整を受ける。そのため「ドル安」が起きる可能性もあり、外貨を買うリスクが高くなるので円が一方的に流出するなんてことは起きないのだ。
上の話で言うと、外貨預金が突出して有利になるということはない。


(「インフレと為替の関係」
購買力平価」の定理によって、為替変動は円がインフレなると円安ドル高の方向に流れる。しかし変動相場制ではこの定理が短期間では実現されず、不安定に上下する。)


このように変動相場制では、自国通貨の暴落によるハイパーインフレは起きないようになっているのである。
しかも日本は債権国であり、円高傾向にさえある。


特にドイツやハンガリーハイパーインフレの話を持ち出して、「ほら、インフレって怖いでしょ?」と言うのは感心できない。
かの国々において存在したハイパーインフレの原因となったもの(膨大な債務や固定相場制)は、日本には存在しないからだ。
因果関係を取り違えている。原因がないのに結果を怖がる必要はない。


******************


氏はすぐれた数理技術と物理学の知識を持ちながら、経済現象について、特に金融政策への知識は不足している。
さきのハイパーインフレの話もそうであるし、最後の章の経済物理学の課題についても以下のようなことを書いている。

人類にとって最大の難問は環境問題です。

現在のままのペースで進んだとすると、2050年にはエネルギー消費量が地球の容量を超えてしまうことまで真剣に議論されています。


確かにそういう奇妙なことを真剣に議論している人たちはいる。
次々と油田が発見され、技術の進歩で採取量が増え続け、ガスなどの地下資源もかなりの量があることが分かり、多種多様な代替エネルギーが開発され、いざとなれば原子力発電が使え、各種機械のエネルギー効率がどんどん上昇している現代において、「2050年にはエネルギー消費量が地球の容量を超えてしまう」とは言ってくれる。


彼らは単に無用な不安をあおっているだけである。
現在、エネルギー問題は「環境問題」ではなく「政治問題」である。


それに本当に環境問題は最大の難問なのだろうか?
環境問題が重要であることは疑いようがないが、それが解決困難な難問であるとは不可解だ。
氏は本当に環境問題について調べたのだろうか?
テレビや新聞、雑誌などの知識だけから、判断していないだろうか?環境が大事だと言っておけば間違いがなかろう。という安易さを感じてしまう。
現在は食糧の生産量も増え、大気汚染も改善され、資源は十分にあることが分かっている。
各種技術の発展が環境問題の解決に光明を見出させてくれている。


むしろ問題は北朝鮮やアフリカの国に見られるような、政治能力がない人物に統治された国の悲劇である。
内乱と粛正に明け暮れて政治をおざなりにし、適切な技術を導入できないから食糧不足に悩み、衛生的な環境を用意できないせいでエイズが蔓延し、金融政策を知らないせいで財政が破綻し、宗教的情熱によって貴重な労力を無駄にしている「政治力の不足」が現在の世界の最大の難問ではなかろうか。
こちらはどう解決すればいいか見当もつかない。


「環境との調和」とか「地球環境のために」というのは理系の学者が大好きな言葉だが、美辞麗句に酔っているだけのように見えることが多いのである。


いかに自分の信念に反するような結果であっても、実際の現象において観測される事実を何よりも優先するのが科学者です。という批判は氏にそのまま当てはまる。
インフレや環境問題を論じる際にも、信念よりも観測事実を優先すべきである。


経済物理学は確かに面白そうな分野である。
円や金利、生産量だけではなく、人々の意志や期待さえをも物理量のごとく扱えるようになったらいいだろうなと私は夢想する。
しかし経済学をバカにしている限り、この「経済物理学」なる分野が発展することは難しいと思うのである。

米原万理「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」☆☆

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

子供時代の思い出は、何もかもが懐かしい。


特にその時期を共有した子供時代の友人たちとの日々は、二度と手に入らない大事な時間だ。
彼らは無二の親友で、いつでも会える自分の生活の一部のような存在で、何でも話せる相手であった。


それにも関わらず、成長して大人になり、環境が変わり、日常生活に追われる中で、いつの間にか彼らとの関係は疎遠になり、彼らのことはただの遠い記憶の一部になっていく。


そういうものだ。
子供の頃から大人になるまで友人関係を継続できるのは珍しいことだ。


それでも、ささいな会話。互いに交わした約束。一緒に遊んだ場所の記憶、
それらの一つ一つが今の自分を形作っている。


この本はそんな子供の時間を共有した少女たちが、歴史に翻弄され、消息をたち、長い時を経て再会するまでを書いた話である。


著者の米原万理さんは10歳のとき、日本共産党から派遣された父親に連れられてチェコスロバキアプラハにあるソビエト学校に入学した。


その学校には当時、ソ連と国交のあった世界中の国から多くの子供たちが集まっていた。
彼女はその学校で3人の女の子、


ギリシャ人のリッツァ、

ルーマニア人のアーニャ、

ユーゴスラビア人のヤスミンカと仲良くなった。


米原さんは父親の仕事が終わるまでの5年間をプラハで過ごした後、その友人たちと別れることになる。


そして、その後の彼女たちの関係は ほぼ30年間、空白に近い状態になる。
それは日々の暮らしが忙しかったせいもあるのだが、彼女たちの場合は国際状況の変化も反映されていた。


理想主義者というのは決して団結しない人間たちである。
当時ソビエトと中国は関係が悪化しており、ソビエトは中国寄りだった日本共産党とも仲が悪くなった。
そして子供たちは資本主義国家である日本の人間との交流は良くない事として親や教師からけん制されていた。そのため手紙のやり取りさえ自由にはならなかった。


更にはチェコスロバキアにおいてプラハの春という「人間の顔を持つ社会主義」を目指した改革運動が起こり、ソビエトはそれを弾圧し、プラハソビエト学校は閉鎖され、生徒たちはバラバラになった。


プラハの春の弾圧、ギリシャでの軍政から民政への移行、ルーマニアでの独裁者チャウシェスクの処刑、ユーゴスラビアにおける互いが互いを殺しあう悲惨な民族浄化の嵐。
東欧が激震するたびに米原さんは彼女たちの安否を気づかい、ソ連崩壊によってようやく彼女たちと連絡を取れるようになるのである。


この本は3人の友人についての3つの話からなり、各話において前半で少女時代の思い出が語られ、後半でソ連崩壊後、米原さんが彼女たちの消息をたどる話につながる。


ここでは、その3つの話の前半部分だけを紹介したいと思う。


(1)リッツァの夢見た青空

リッツァはまだ見ぬ祖国のギリシャの空のことを

「それは抜けるように青いのよ」

と誇らしげに語る女の子であった。

リッツァとその家族は軍事政権下のギリシャからの亡命者一家だった。
彼らは戻ることのできない祖国とその青い空をこよなく愛し、故郷に帰れる時を心待ちにしていた。
リッツァの母親は美しく、兄は鼻持ちならないが女子にとても人気があるスポーツマンで、父親は美男ではないが誠実で真面目な好人物であった。


そしてリッツァは勉強がからきしダメな子供だった。彼女はある日、女性数学教師から


「体重2キロのニワトリは片足で立つと何キロになりますか?」


と訪ねられて、堂々と「1キロ」と答えた。
数学教師は呆れながら彼女に片足立ちをさせて自分の体重がそれにより変化しないことを納得させた後、


「リッツァ、同じように片足で立ったというのに、なぜニワトリは体重が半分になってしまうのに、あなたの体重は変わらないの」


と問いただした。
すると、リッツァは目に涙を浮かべて、すすり泣きながら抗議した。

「私は人間ですよ。トリなんかと同じに扱わないで!!」

数学教師はリッツァに対して「あなたは本当に、ピタゴラスユークリッド先生を生んだギリシャ民族の末裔なの!?」と何度も嘆くのであった。


しかしリッツァはそんな嫌味に対して


先生方は頭が硬いから、ギリシャっていうと、古代ギリシャ止まりなのよ。
でも、あたしは、メリナ・メルクーリやカザンキスの同胞だと思っているから、ピタゴラスアルキメデスも糞喰らえってなもんだわ、ハハハ」


としか思っていなかった。


映画俳優を同胞と呼ぶ彼女は映画通であり、また年上の兄から仕入れた恋愛とセックスの話で思春期の女の子たちを夢中にさせるマセた子であり、スポーツ万能でもあり、心根の明るい快活な少女でもあった。
そんな彼女のことを他の生徒も好ましく思っていたのか、毎年落第しそうになるたびに彼女はクラスメートの支えを受けて進級していた。


だがリッツァはただ明るいだけの少女ではなかった。
米原さんは、あることをきっかけにリッツァのことを尊敬するようになる。
それは学校で行われた「レーニンの足跡をたどって」という映画の上映会での出来事だった。
その映画ではレーニンが過ごした各地の住居跡、小都市シムビルスク、カザン市、シベリアの流刑地、亡命先のスイスやチェコのマンションが次々と映し出され、ナレーションは偉大な指導者の革命にささげた情熱について歌い上げていた。
米原さんがそのことに子供らしい素直さで感動していたとき、リッツァは言ったのだった。


「マリ、レーニンって、すいぶんいい暮らしをしていたのね」


そこで米原さん始めて、映画で紹介されていたレーニンの部屋が高価な家具であふれていたことに気がついた。
実際レーニンは自分で自分の生活を支えた労働経験のない、小作料を当てにして生活していた地主であった。
10歳で、しかも何の予備知識もなくそのことを見抜いた少女の「シビアなリアリズム」に米原さんは敬意を抱いた。


米原さんがプラハを離れてからも、しばらくの間はリッツァと手紙のやり取りがあった。
その中でもリッツァは


「パパは、あたしに医者になれ、医者になれって毎日うるさいけど、まっぴらだわ。
医者なんて、一生勉強じゃない。これほどあたしに不向きな職業はないとは思わない?
ああ、ゾーとする。絶対に医者になんかなるもんですか!
あたしは映画女優になって食ってくつもりだから。
贅沢して、いい男と片っ端から寝てやるつもり。


未来の女優より」

という相変わらずの能天気さを発揮していたのであった。


やがてプラハの春が起き、ソビエト学校が閉鎖され、手紙も電話も通じなくなり、リッツァとは音信不通となった。

ただ米原さんのもとには風の噂で、リッツァがチェコスロバキアの最高峰の大学の医学部に入ったという話が伝わってきた。


あの勉強嫌いなリッツァがエリート大学の医学部に?
「絶対に医者になんかなるもんですか!」と言っていた彼女が?
米原さんはリッツァの父親がコネを使ってリッツァを大学に入れたのではないかと疑念を抱いた。
また、あのリッツァがきちんと医学部を卒業できるのかが心配だった。


その後ギリシャは民政へと移行し、ギリシャの青い空を愛していたあの家族は皆祖国へと帰ったに違いないと米原さんは思うようになっていた。


それからしばらくしてソ連が崩壊すると、米原さんはプラハへと向かった。


女優を目指していた少女、リッツァと会うために。

アントニオ・R. ダマシオの「生存する脳」☆☆

ロボットの王国
第三回 アンドロイドサイエンス を引き合いにした「生存する脳」の紹介。

生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


上記リンク先においてコミュニケーションロボット研究者の石黒教授はこう主張している。

「知能は個体に宿るというより、個体間や個体と環境との相互作用として発現するものと考えられている」、と。

そもそも最近の知能や意識の研究においては、「身体感覚なくして、主観や知能は存在し得ない」という考え方がある。


たとえば、恐怖。


激しくなる心臓の鼓動、乾く唇、額から流れる汗、震える手足という感覚なくして、私たちは果たして恐怖を感じることができるだろうか?


たとえば、思考。


頭の中で声を出し、文字や図形をイメージすることなしに人はものを思索することが可能だろうか?
つまり、人の意識や知能は肉体から独立した存在ではありえないというわけである。


この話は、たとえばアントニオ・R. ダマシオの「生存する脳」で詳しく実例を挙げて解説されている。


最初に紹介した石黒教授の発言も、外部の環境をいかに知覚するかという身体感覚なくして知能は存在し得ないというダマジオ路線の考え方と見ることができる。


しかしそこで氏は更に知能の源泉を積極的に他人とのコミュニケーション、環境との相互作用という個体の外に求めているのだ。


単純に考えれば、外部との相互作用は個体の身体能力や感覚に依存するので、飽くまでも個人の知能の正体は個人の内部に存在することになる。
それならば「人工知能」なるものは、この内部のシステムを完全に再現したときに始めて実現可能となる。


だがここで「知能」を「人間と同じ仕組みを持ったもの」ではなく「人間と区別ができにくいもの」、つまり社会に普通に溶け込むことできるコミュニケーション能力だと定義すれば話はまるで違ってくる。


氏は展示物を案内するロボットを引き合いに出して、こう言うのである。


「このロボットは、どの展示物をどれくらいの時間見たという情報を受け取り、その情報で嗜好を調べて、平均を判断しながら次の展示物へと子どもたちを完全自動で誘導しています。このように情報をきちんと集めることができて、それをもとに行動することができれば、充分人間の思考と同様に“考えている”ように見える。逆にいうと人間は、それ以上のことをやっているのでしょうか」(石黒教授)

私たちの意識や個性の正体なんてものは、実は刺激に対する単純な反応の積み重ねに過ぎないのではないか?
なんと刺激的な問いかけであろうか。

ここで私は反射的に「人工無能」の話を思い出した。


人工無能」とは発言の中のキーワードに反応して適当な対応を返すプログラムのことである。
しかし奇抜な会話を試みようとしない限り、かなり普通の会話を行うことが可能である。


「こんにちは」


と入力すれば、人工無能


「こんにちは」


と返してくる。その後も「そちらのお天気はどうですか?」「晴れです」「男性ですか?女性ですか?」「ノーコメントでお願いします」「秘密ですか?」「秘密です」、、、というように会話を続けることができる。


実際、外国の実験では、多くの人がこの人工無能を本物の人間だと勘違いしたという報告を何かの本で読んだ記憶がある。


知能の正体を内部に求めれば「人工無能」は知能ではなく、外部に求めればソレは知能に一歩近づいたとみなせる。


単純であっても世界と自律的にコミュニケーションできる機械ができるのだ。あとはそのコミュニケーションの密度をどんどん上げていけば、いずれは知能と呼べる存在に到達するだろう。


この方針に従えば、氏の人工知能の研究も力点の置き所が他の研究とは違ってくる。


それはデザインの重視である。
何故なら他者とのコミュニケーションとは、まず外見から入るものだからである。

内部を重視すれば、デザインなんてものは専門外のデザイナーに任せておけばよかった。
そうすれば丸っぽい流線型の、清潔感に満ちた、カワイイのやスマートなのを造ってくれるだろう。
そこではデザインは芸術であり、技術ではない。


それに対して氏は、研究者はデザインにもっと真面目に取り組むべきだと主張するのだ。


デザインに関して、従来の研究では全部デザイナーに任せてきました。それだとロボットのインターフェイスのデザインをデザイナーの直感に依存することになって、工学として技術を蓄積することができないんですよ。


子供のときに見た相澤次郎博士のデザイン(先行者みたいな外見)が忘れられない私は、最近の丸っこいロボットが嫌いなので、是非とも工学者のデザインには期待したいところである。


さて、以上の要約は個人的な曲解も混じっており、記事の意図を正確に反映したものではないので興味を持たれた方は是非とも本文の方を読んでいただきたい。

佐々木 倫子「Heaven?―ご苦楽レストラン」(全6巻)☆

Heaven?―ご苦楽レストラン (6) (ビッグコミックス)

Heaven?―ご苦楽レストラン (6) (ビッグコミックス)

墓場の裏という最悪の立地条件にあるレストランを舞台にしたマンガ。
オーナーは仕事で一山あてて得た小金でレストランのオーナになった我田引水、ゴーイングマイウェイな女性。
それに振り回される従業員は素人同然の寄せ集め集団。
彼らは仕事を通じて実力をつけていく。


基本的にはそんなレストランのドタバタ人間喜劇を楽しむマンガだが、サービス業とは何かについて考えさせてくれる場面も多し。

Heinz J. Rothe「Lattice Gauge Theories: An Introduction」☆☆

Lattice Gauge Theories: An Introduction (World Scientific Lecture Notes in Physics)

Lattice Gauge Theories: An Introduction (World Scientific Lecture Notes in Physics)

格子ゲージ理論の教科書。
格子理論は無限の発散をもつ場の理論を有限しか扱えないコンピューターで数値計算するために使われる理論である。


またこの理論はそれだけではなく、場の理論を数学的に厳密に構成するための「構成論的場の理論」においても重要な役割を果たす。


この理論は時空を格子状のさいの目に分割してしまう。
そして無限のミンコフスキー時空を有限のユークリッド空間の中に押し込める。
実に興味深いモデルである。数値計算にだけ使うにはもったいない。


ここで注意を一つ。
格子ゲージ理論では近年ルッシャーによる大きな発展があった。
古い版の教科書ではその重要な発見について書いていない。
もし格子ゲージ理論を学ぶのならば新しいものを買うことをお勧めする。


(補足)
フェルミオンを格子モデルにのせると自由度を本来の倍数えてしまうというダブリング問題が生じる。
これを解決するには理論が持つべきカイラル対称性を必ず破ってしまうことがニールセン・二ノ宮の不能定理で知られていた。


しかしルッシャーはギンスパーグ・ウィルソンの関係式を満たすフェルミオン場を導入することでカイラル対称性を満足したままダブリング問題を解決できることを示したのであった。


これにより格子ゲージ理論フェルミオンも含めた場の理論について、より正確な数値シュミレーションを実行することが可能になった。


ああ、なんと素晴らしい大躍進か!
しかし今この場で私一人だけが盛り上がっているようなのは気のせいだろうか?