人類はいつか必ず絶滅する。


人間がいつか必ず死ぬように、種もまた必ず滅ぶようにできている。


0%の確率についてなんか考えるだけ無駄なことだが、奇跡的な幸運が無量大数回重なって人類が何十億、何百億年先にと存続していたとしても、宇宙の終わりとともに結局は消滅するのだ。


だがそんな先のことを考えるまでもなく、私たちは100万年もあれば余裕で絶滅できることだろう。
ただし、小さな希望はある。


人間が人間以外のものになって残る可能性はあるからだ。
だが、それがどんなものになるかは、私たちには知れることではない。
マン・アフターマンの世界は想像して楽しむことはできても、科学的に予測することは困難だ。
ただ知性が進化にとって必ずしも有利ではないことを考えれば、人類の後の人類は知恵なき獣のような存在になるかもしれない。
つまり希望を抱いても、あまり期待通りのことになると期待すべきではないのだ。


さて、壮大な話はここまでにしよう。
即物的な私としては100年、1000年単位で物事を考えたいと思う。
今回、考えたいことは「人類滅亡」ではなく「文明滅亡」だ。


それというのも先日、私は「銃・病原菌・鉄」で有名なジャレド・ダイアモンドの最近の著作「文明崩壊」を読んで、それについて色々と想像をめぐらせてみたのだ。
そして私は、文明崩壊とは供給能力の崩壊であるとの思いを抱いたのである。
今回から、数回に分けてそのことについて書いてみたい。


まず文明の維持とは経済の維持と同意義語であろう。
文明とは生産の上に成り立つものであり、経済とは生産の維持と向上のことだからである。


では経済とは何だろうか。
これには2つの側面がある。
それは需要と供給だ。


供給とは、物を生産する能力のことだ。
そして需要とは、物を消費する能力のことだ。


これらを向上させることが出来れば、人類は幸福になれる。
これは疑うべき余地のないことだが、疑う人が意外に多くて、そのせいで大勢の人間が不幸になっている。
神への従属や美化された過去への回帰を望む人が、善意から生産と消費を否定し、世界を停滞させるというのはよくあることだ。
だが、今回はそのことについては考えないで本題に戻りたい。


ではどうすれば、この2つは向上するのだろうか?
(続く)