文明崩壊(1)の続き



需要と供給はどうすれば向上するのだろうか?



まずは供給について考えよう。
供給面の向上なしに長期的な経済成長はありえない。
だがそれをどのように向上させればいいのかは、経済学でもまだよく分かっていないことだ。



ただ大ざっぱな方法だけは分かっている。
それは労働力を確保し、設備投資を行い、幅広い層に教育を与えておくことだ。
そうすることで、食料品、工業品、建造物、娯楽などの生産力向上が可能となる。
そして疫病、災害、内戦、資源不足、環境破壊などが起こると、供給は滞り経済は衰退する。



では需要についてはどうだろうか?
物をいくら生産し、供給しても誰もそれを消費しないのならば、無駄なことになる。
供給力の向上にあわせて需要も向上しなくてはいけない。
物を消費するためにはお金が必要だ。
だからもしも人々の消費意欲が盛んならば、お金を市場に流さなくてはいけない。
だが、過去において貴金属を貨幣としていた時代には、好き勝手にお金を流すことは難しかった。



しかし現在の経済は、信用貨幣がただの「原価20円の無価値な紙切れ」が「1万円の価値ある紙幣」となって流通する世界だ。
中央銀行はお金をいくらでも作ることが出来る。



過去と現代を区別する指標の1つは、この信用貨幣の存在である。
現在の世界では、マクロ経済学が 需要とマネーの関係などを「金融政策」として研究している。



それでは文明崩壊には、この供給と需要のどちらが強い影響を与えるだろうか。
直感的に考えればそれは供給であり、私の出した結果も供給なのだが、ここでは少しまわりくどく考えたいと思う。
何故なら需要が経済のなかで中心的な役割を果たしたことの革命的な意義に思いをはせたいからである。



クルーグマンは「グローバル経済学を動かす愚かな人々」の一節「景気循環の法則を求めて」で、歴史の勉強ならば一年間できても、経済学の勉強は一日たりともしない人を皮肉りながらこう言っている。

遠大な歴史の流れの中から現代への教訓を引き出そうという試みの多くが、産業革命が世界の仕組みに根本的な変革をもたらしたという認識を否定している。


十八世紀を皮切りに世界は本質的な変化を体験したし、それは文明が誕生して以来のいかなるものよりも深遠な変化であった。


産業革命以前の世界はまるで別の惑星かと思われる点が多々あるが、そうした違いの中でも特に重要な変化が二つある。


マルサス人口論というものがある。
人間は増えすぎると食料や資源が不足し始める。すると互いがそれらをめぐり争い、奪い合うようになる。私たちは殺し、殺され、餓死し、栄養失調で病死する。
そうすることでやがて人口はちょうどいい数にまで調整されて、社会は再び安定を取り戻す。
人間社会は、戦争や飢餓によって調整される増加と減少のサイクルを繰り返し続ける。そういう理論である。
今でも多くの人々が、マルサスの論に近い世界観を持っていると私には思える。


このマルサスの説についてクルーグマンはこう指摘する。

五十七世紀におよぶ文明の歴史の中の五十五世紀を通じて、マルサスの指摘は正しかった。
文明の歴史を通じて、技術の進歩が生活水準を持続的に向上させたことはなかった。
むしろその恩恵は人口増加によって相殺され、生活資源を圧迫し、最終的にはほとんどの人々の生活レベルをそれ以前の水準に押し戻してしまった。
時代が良ければ人々は子孫を残せるだけの資源を確保できるが、戦争、飢餓、疫病にぶつかれば存亡の瀬戸際に立たされ、その結果、人口はほぼ一定に保たれてきたのである。


だが五千五百年間正しかった彼の説は、彼の「人口論」出版直後の二百年間に限って正しくなかった。
それは内燃機関の発明などによる産業革命という真の変革が訪れたからである。
これに比べればコンピューターさえも二流の発明品だとクルーグマンは言う。
産業革命以降、技術の進歩が生活水準の向上に結びつくようになった。そして産業革命は私たちに「景気循環」というものを教えてくれた。
もう一つの大変化とは、この景気循環のことである。

産業革命以前の経済において,現在の私たちが経験するような景気後退は起きるはずのないものだった。
通貨制度は単純で、人口の大半は農民で、需要の落ち込みに対しては生産の削減ではなく、値下げで応じていたからである。


1800年以前の景気下降は、不作や戦争など「供給面」で起こった異変の結果である。
これらは資金需要が原因で起きる現代の景気後退とはほとんど関係がない。
信用貨幣制度の存在がないので、景気後退の中心をなす信用の縮小などそもそも起きようがない。


ナポレオン戦争後のイギリスで起きた不景気こそが歴史上初の本格的な景気後退であった。
別の言い方をすれば、景気後退の第一号は、当然、最初に工業化した国で起きたのである。


現在の文明が維持されている社会で重要なのは、短期的には金融政策により需要をコントロールし、長期的には技術の進歩により供給を高めることである。
そして文明が崩壊するならば、それは人類が産業革命以前の世界に戻ることを意味しよう。
つまり景気後退を供給面だけが支配する時代が私の文明崩壊の定義である。
それは供給能力が需要と比べて極端に低下し、信用貨幣が意味をなくした世界でもある。


簡単に言えば、北斗の拳の悪役のモヒカンが略奪した物資に入っていた札束をばらまきながら「ゲヒャヒャ、こんなものケツをふく紙にもなんねーぜぇぇぇええ!」と言っているような世界のことである。


では次に、そのような供給面の低下が起きる原因を「文明崩壊」を読みながら考えたいと思う。