「責難は成事にあらず」の解釈について


責難は成事にあらず」と私は以前に書いた。
これを「対案を出せない意見に価値はない」という教訓だと思った人がいたようだ。


ああ、やっぱり、そんなふうに解釈されてしまった。
本当に言いたいことは相手に一度で伝わるものではないのだと思った。
私の言葉が足りないのがいけなかったのだが、饒舌すぎても聞く方はうんざるするだけなので難しいところである。


まず、最初に強調すべきことは、対案なんて必ずしも出す必要はないということである。
時おり議論において


「そんなに自分の意見に反対するなら対案を出せ!」


と主張し、それで対案が出せないなら俺の勝ちだみたいにふんぞりかえる人がいる。
彼らは物事の立証責任がどちらにあるかについて悩まない人たちである。
簡単に言えば、こちらが考えてやる必要のないことまで考えろと要求してくるのである。
相手が間違っているのならば、それを指摘してやるだけでいい。必ずしも自分が正解を持っている必要はない。


たとえば誰かが「俺は(姓名判断に従って)改名すれば幸せになれる」と主張したならば
「名前を変えても幸福にはなれない」とその誤りを言うだけでいい。
「それなら俺はどうすれば幸せになれるか対案を出せ」と言われても、「お前の幸せなんか知らん」とか「目を噛んで死ね」とでも答えれば十分であろう。


対案を出せなくても、相手が間違っていると思ったのならばどんどん指摘すればいい。
大事なことは相手を批判しているうちに、何の根拠もなく自分の考えは正解なのだと思い込まないようにすることである。
そして、それこそが責難は成事にあらずということであろう。
責難は成事にあらずとは、他人が間違っていると感じたとき、その反対の立場をとれば正しい立場になれると思い込む愚を諭す言葉なのだから。


たとえば米原万里さんは「低金利は庶民を苦しめるアメリカに押しつけられた政策だ」と主張した。
その陰謀論的な幼稚な思考には辟易するが、それが仮に正しいとしても、だからといって米原さんは自分が正しいと思ってはいけなかったのである。
彼女が権力を持っていたのならば、彼女は自分の「正解」を実行したことだろう。
金利をやめて庶民を救わんとするのだ。
貯金を山ほど持っている「庶民」の生活は利子の数万円分は楽になることだろう.


だが経済学を知っている人間には自明のことだが、デフレも終わっていないのに金利を上げれば
需要が下がり、企業は倒産し、失業者は増え、税収も減少する。
そうなれば、福祉はすたれ、公共施設は老朽化し、教育費は削減され、社会不安が発生し、犯罪は増加し、国粋主義無政府主義のような極端な思想が流行するようになる。
その損害は億や兆の単位となることだろう。
それが米原さんが選択した正義のもたらす結論だ。
「低金利」が悪だとしても、その反対の立場が正義になるわけではない。


話は変わるが、私が中国に行った時、満州国の資料館で溥儀は意志薄弱売国奴のように言われていた。
そして帝国主義に毒された溥儀は、その正反対の立場である共産主義で浄化され「正解」を得たような言われ方をしていた。
確かに彼は中国のためになることは何もできず、日本帝国の傀儡として過ごした。
だが、それを非難する中国が自分の正義に自信満々なのが気に入らなかった。
溥儀を責めれば、自分が正しいのだと言わんばかりの態度だ。


だが第一に日本帝国の次に溥儀を傀儡に利用した毛沢東政権だって「大躍進」や「文化大革命」でさんざん失敗している。
(私の祖父は当時農村に強制移住させられた中国の大学生を一人 日本に呼び寄せ医大に進学させていた。毛政権は帝国主義のクソヤロウに自国民を救済される不名誉な事態を招いたわけである。)
日本帝国が「暴虐」ならば毛政権は「無能」だ。中国人としてはどちらも迷惑な存在に変わりはないであろう。
暴虐を非難したからと言って無能が正義になるわけもない。


第二に当時の溥儀に日本帝国の傀儡になる以外の選択肢があったかどうかである。
当時の中国は袁世凱に代表されるような軍閥が内乱を繰り返し、西洋列強が侵略を進め、日清戦争では敗北してボロボロの状態であった。
(ちなみにこの清からの賠償金が日本の社会資本を大幅に底上げし、その後日本は急成長を果たすのである)
そんな時に日本帝国に逆らっても勝てるわけがない。
ならば日本帝国に協力する振りをして、十分な投資を呼び込み国力を充実させるのが策ではないだろうか。
傀儡になっても、いつか反撃の時が来るかもしれない。
結局溥儀に反撃の機会はなかったわけであるが、傀儡になるしかなかった溥儀に傀儡であることを責めても、それは成事ではない。
そして戦後、溥儀は毛政権の宣伝塔になる選択肢しかなかったわけである。


責める相手に他の選択肢があるかどうかを考えるのも責難する時には必要なことだ。
陳腐な道徳訓になるが、「相手の立場で物事を考える」のが大事だということだ。
だから金利の話に戻ると、低金利以外の選択肢がない政府に向かって、低金利を非難して正義面する米原さんは、相手の立場になってものを考えることをしていないのである。


付記:以上の文章の「米原さん」は全て「民主党」に置き換えても可である。