家がないなら都会で暮らせばいいのに

両親が200万円を親族に貸した。
経営に失敗し、家族に逃げられ、自宅を抵当に取られそうになっていた親族にだ。
だから、そのお金はおそらくかえってこない。
私はその金を貸すことに反対した。
何故なら、そのお金は誰も救わないからだ。


先日、私たち一族が田舎の村で勢力を誇っていた話を書いた。
地方経済やその共同体は衰退し、私たちは没落した。


私はそれを悪いことだとは思っていない。
仕事の需要と人材が都会へ集中するのは仕方のないことだ。
地方分権に期待する人もいるが、私の目に映るのは経済的に自立できない産業がぶら下がっている姿だけである。


金融政策で失業率を下げて人材の流動性を確保した上で、自立できない産業や農業には下手な補助をしないで消えてもらう。
そこからこぼれた人には福祉を行う。その財源には景気が上向いたことで増えた税収を用いる。
これが一番理想的なシナリオだと私は考えている。
地方分権主義者のシナリオはよく分からないものが多い。共同体とか多様な文化の共存とか、若者が生き生きしている町づくりとか、具体的に何をしたいのかが見えてこない。


閑話休題
だから私は都会に来れる人は、田舎から抜け出した方が良いと考えている。
都会には仕事も人情もある。
田舎には人情の強要しかない。言い過ぎだと怒る人もいるかもしれないが、「言い過ぎなものか」である。


その親族は会社の株を支えるために自宅を抵当に金を借りていた。
黒くはないが白くもない金の借り方をしていた。銀行以外の第三者が絡んだ複雑な貸し借りである。
そのお金が返せなくなり、そこの町長から苦情がきた。
家庭の問題に町長が出てくる時点で、どんな借り方をしたのか想像がつくというものだ。
それで一族会議が催され、各家が100万から300万円を貸し出すことが決定した。
我が家は200万円とされた。


私はそのお金を出すことに反対した。
それで一体誰が得をするというのだ。
喜ぶのは銀行だけだ。
あの田舎の家は、あの親族を衰退するだけの田舎町に縛り付ける足枷でしかない。何千万も出して足枷を確保してどうするのだろうか。
経営に失敗して、家族から三行半を突きつけられ、職を失い、一人あの家の中にいて何ができるというのだろうか。
あんな家は銀行にくれてやってしまえばいい。
そして、その上で私たちは一千万円以上の現金をその親族に貸し与えればいいのだ。


そのお金で都会に出てくれば、住む場所も確保できるし、職を探すまでの生活資金にもなる。
そこで人生を再スタートさせれば、家族再生とまでは言わなくとも、会ってさえくれない現状から改善もありうる。
その親族が家族から見捨てられたのは、古いものにしがみつき前進しない姿を軽蔑されたからなのだから。


だが現状は最悪だ。
私たちは数百万ずつの大金を失った。
当の親族には誰もいない一軒家だけが残された。職も家庭も貯金もない。
お金は集めるよりも有効に使う方が難しい。